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東京地方裁判所 平成元年(刑わ)1047号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一章  本件各公訴事実の要旨及び当裁判所の判断

第一節  本件各公訴事実の要旨

第一  被告人及び江副の各身上関係

一 被告人は、衆議院議員であったが、昭和五八年一二月二七日から昭和六〇年一二月二八日までの間、官房長官として、内閣の庶務、行政各部の施策に関するその統一保持上必要な総合調整等の内閣官房の事務を統轄する等の職務に従事していた。

二 江副は、民間企業から掲載料を得て大学等卒業予定者向けの求人に関する諸情報を掲載する就職情報誌の発行、配本等の事業を営むリクルートの代表取締役をしていた。

第二  わいろ収受に至る経緯

被告人は、民間企業の大学等卒業予定者の早期採用選考を防止して求人求職秩序の確立を図るため、民間企業が行う求人活動につき、企業と大学等卒業予定者の接触開始日を卒業前年の一〇月一日、企業の採用選考開始日を同年の一一月一日とする旨の中雇対協及び国立大学協会等で構成する就職問題懇談会の申合せ(以下単に「就職協定」という。)が遵守されていないことを知悉していた。

第三  請託及びわいろの収受

一 被告人は、昭和五九年三月中旬ころ、東京都千代田区永田町二丁目三番一号公邸において、江副から、民間企業における就職協定が遵守されないのは、国の行政機関が公務員の採用に関して就職協定の趣旨を尊重しないことに一因があり、就職協定が存続、遵守されないとリクルートの前記事業に多大の支障を来すので、国の行政機関において就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするように尽力願いたい旨の請託を受けた。

被告人は、前記請託の報酬として供与されるものであることを知りながら、

1 昭和五九年八月一〇日ころ、同区永田町二丁目一〇番二号TBRビル八〇七号室の藤波事務所において、江副らから、リクルート代表取締役江副振出しに係る金額二〇〇万円の小切手一通及びリクルートの関連会社であるリクルート情報出版代表取締役江副振出しに係る金額三〇〇万円の小切手一通(金額合計五〇〇万円)を受領し、

2 同年一二月一九日ころ、前記TBRビル六〇二号室の藤波事務所において、江副らから、リクルート代表取締役江副振出しに係る金額一〇〇万円の小切手三通及びリクルート情報出版代表取締役江副振出しに係る金額一〇〇万円の小切手二通(金額合計五〇〇万円)を受領し、もって、自己の職務に関してわいろを収受した。

二 被告人は、昭和六〇年三月上旬ころ、公邸において、江副らから、前記一と同様の請託を受けた。

被告人は、右請託及び前記一の請託の報酬として供与されるものであることを知りながら、

1 昭和六〇年六月二六日ころ、同区永田町二丁目三番一号首相官邸において、江副らから、リクルート代表取締役江副振出しに係る金額一〇〇万円の小切手五通(金額合計五〇〇万円)を受領し、

2 同年一二月五日ころ、前記藤波事務所において、江副らから、リクルート代表取締役江副振出しに係る金額一〇〇万円の小切手五通(金額合計五〇〇万円)を受領し、

3 昭和六一年九月三〇日ころ、前記藤波事務所等において、江副らから、同年一〇月三〇日日本証券協会に店頭売買有価証券として店頭登録されることが予定されており、店頭登録後確実に値上がりすることが見込まれ、江副らと特別の関係にある者以外の一般人が入手することが極めて困難であるコスモス株を、店頭登録後に見込まれる価格より明らかに低い一株当たり三〇〇〇円で一万株を譲り受けて取得し、

もって、自己の職務に関してわいろを収受した。

第二節  当裁判所の判断

本件においては、

一  昭和五九年三月一五日の請託及び昭和六〇年三月上旬の請託のいずれについても、それらの事実があったことにつき合理的な疑いが残り、本件各公訴事実について犯罪の証明がない。

二  仮に、各請託の事実が認められるとしても、供与された小切手、譲渡されたコスモス株がわいろであると被告人が認識していたことにつき合理的な疑いが残り、本件各公訴事実について犯罪の証明がない。

第二章  被告人の主な経歴

被告人は、昭和四二年一月の衆議院議員選挙に初当選して以来、平成元年五月まで連続八期当選を果たし、衆議院議員の地位にあったが、その間、自由民主党(以下単に「自民党」という。)に所属し、文部政務次官、自民党文教部会長を務めるなど、いわゆる「文教族」として活動をしていたところ、昭和五四年一一月労働大臣、昭和五七年一一月内閣官房副長官にそれぞれ就任してその役職を歴任し、昭和五八年一二月二七日から昭和六〇年一二月二八日までは官房長官の職にあった。

官房長官の任期を終えた以後、昭和六一年一月から自民党国会対策委員長を務め、昭和六二年一一月から昭和六三年一二月までは自民党内の派閥の一つである中曽根派の事務総長の地位にあった(一四六回・藤波、乙書四六・藤波、甲書一八三、一八四等)。

第三章  本件各請託の有無等

第一節  昭和五九年三月の請託の有無等

第一  当事者の主張及び当裁判所の判断

一 検察官の主張

江副は、昭和五九年三月一五日、被告人を公邸に訪問して、民間企業が就職協定を遵守しないとリクルートの事業に支障を来すことや、就職協定が遵守されないのは、国の行政機関が国家公務員の採用について就職協定の趣旨を尊重しないで早い時期に青田買いをすることに一因があることなどを説明した上、国の行政機関において、就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするよう尽力願いたい旨請託し、併せて、国家公務員採用上級甲種試験(以下単に「公務員試験」という。)の合格発表日の繰下げを陳情した。

二 弁護人の主張

江副は、昭和五九年三月一五日、被告人を公邸に訪問したが、その目的は公務員試験日程の繰下げについて相談するためであり、その際官庁の青田買い防止について請託したことはなかった。

三 当裁判所の判断

江副は、就職協定を遵守させるためには、公務員試験日程を繰り下げることが望ましいと考えていたので、昭和五九年三月一五日、被告人を公邸に訪問し、民間の就職協定が遵守されない大きな原因の一つが、公務員の青田買いであることを説明した上、公務員試験日程の繰下げも公務員の青田買い防止の一方法であるが、それを実現する方策はどうしたらいいのかを相談したのであって、それ以上に官庁の青田買い防止を請託したことについては合理的な疑いが残る。

第二  当裁判所が右のとおり判断した理由

一 昭和五九年度公務員試験の合格発表日が繰り上げられた経緯

関係各証拠(二四回・緒方、三三、三四回・井上、三七回・森園、三七回・鹿児島、六八、六九回・中村、甲書一〇三・福島、甲書一〇〇、三一五、四九八、四九九、六二三、弁書一四八)によると、次の各事実が認められる。

1 昭和五八年当時の就職協定では、一〇月一日学生の会社訪問解禁、一一月一日企業による面接、選考開始となっていたが、一方、昭和五八年度の公務員試験は、七月三日第一次試験、八月二日から同月一九日まで第二次試験、一〇月一五日合格発表となっていた。そのため、公務員試験の受験者は、会社訪問が解禁されても、公務員試験の合否が不明の状態であった。そこで、各省庁は、優秀な人材を確保し、公務員志望者が他の民間企業に就職することとの選択に悩まないようにするため、公務員試験の合格発表日を繰り上げることを希望し、人事院も、会社訪問が解禁される一〇月一日には公務員試験の合格者が各省庁を訪問できるようにするため、公務員試験の合格発表を一〇月一日以前にするべきであると考えていた。

2 そこで、人事院は、昭和五八年度公務員試験の合格発表日を繰り上げようとして、その旨を就職協定の当事者である中雇対協のなかで主導的な立場にある日経連に申し入れた。しかしながら、日経連は、公務員試験日程を繰り上げることが就職協定の遵守に対して好ましくない影響を与えることを危惧して、これに反対したため、昭和五八年に実施される公務員試験の合格発表日の繰上げは実現しなかった。

3 昭和五九年、人事院は、再度日経連に対して、公務員試験の合格発表日を繰り上げたい旨申し入れたところ、日経連から、官庁側が就職協定の趣旨を尊重することを確約するならば反対しないという意向を示された。

そのようなことから、人事院は、日経連等の経済団体から公務員試験の合格発表日を繰り上げることの了解を得るため、各省庁の人事担当者が協議を行う人事課長会議で就職協定の趣旨を尊重することを申し合わせることを考え、森園人事院企画課長が、昭和五九年三月九日、人事課長会議を主宰する中村内閣参事官、学生の採用について産業界と競合する傾向の強い大蔵省、通産省の人事担当者と共に日経連の就職協定担当者である井上日経連雇用課長と意見を交換するなどした後、同月一六日、日経連、日本商工会議所、全国中小企業団体中央会の各幹部と会談した。その結果、経済三団体から右の条件で公務員試験の合格発表日を繰り上げることについて基本的な了解を得ることができた。その後、同月二一日、鹿児島人事院任用局長が日経連を訪ね、松崎専務理事とトップ会談を行い、公務員試験の合格発表日を繰り上げる代わりに、公務員の採用において民間の就職協定を尊重し、協力するということで合意を成立させた。

4 これを受けて、昭和五九年三月二八日、中雇対協において、森園人事院企画課長が公務員試験の合格発表日を繰り上げる必要性について説明した結果、それが了承され、あわせて同日、人事課長会議において、人事院の意向に従い、就職協定に協力し、企業の選考開始日が一一月一日であるとの認識のもとに、一〇月一日前の学生のOB訪問及び一〇月一日以降の官庁訪問に対しても就職協定の趣旨に沿った対応をするものとするという内容の申合せがされた。

二 公務員試験合格発表日繰上げ案に対するリクルートの対応

1 就職協定に関するリクルートの考え方

関係各証拠(甲書一二一・辰已、甲書一三二、一三三・位田、甲書一五三、一五六、六一三・勝野、甲書五四八・大沢、乙書一〇、一六、二二、三〇・江副、甲書五〇八、五二三、五六四〔甲物三九〕)によると、大学卒業予定者等の新規学卒者を対象として発行される就職情報誌に関して、リクルートは、就職協定が存続し、遵守されれば、求人求職活動の時期が制限されることによって、その間就職希望者と求人企業との間の媒体として就職情報誌の利用価値が高まるが、就職協定が遵守されず、あるいは廃止されれば、就職希望者、求人企業は、早い時期から、就職情報誌に頼ることなく、求人求職活動を行うようになって、就職情報誌の利用価値が低下するとともに、就職情報誌の発行、配本等を計画的に行うことができず、リクルートの事業を遂行していく上で大きな支障になり、また、就職協定が遵守されないで、企業が青田買いを行うようになると、その原因が就職情報誌にあると非難され、就職情報誌に対する法規制を招くことにもなりかねないと考えて、就職協定が存続し、遵守されるように関係者に働きかけていたことが認められる。

これに対して、公判において、江副は、就職協定が存続し、遵守されるように関係者に働きかけていたことは認めながらも、「就職協定の存続、遵守とリクルートブックの売上げとは相関関係はなく、むしろ就職協定が乱れた方が売上げが上がる。リクルートでは、学生の勉学環境を確保し、企業の計画的な学生の採用活動ができるように努力することが、学生の就職に関する事業を展開しているリクルートの社会的責任であることから、就職協定の存続、遵守のために努力していたものである。」旨供述し(一一〇回)、勝野は、新規学卒者向け就職情報誌の発行がリクルートの事業において占める割合、就職協定と就職情報誌の利用価値、発行、配本等との関係から、就職協定の状況がリクルートの事業に影響を与えるとは考えていなかった旨供述し(七一回)、位田も、あいまいながら、勝野と同趣旨の供述をしている(四四回四〇~八二項)。

しかしながら、〈1〉昭和五九年一月一八日ころの取締役会において、江副が、昭和五九年度の就職協定の存続、遵守に向けた取組について、就職協定が乱れることは高等教育の荒廃につながることなどを説明し、それを受けて、就職協定が乱れることは、リクルートの事業にとって大変不利であり、関連の協力を得て、少なくとも前年並みの遵守を働きかける必要があることなどが話し合われていること(甲書一二一・辰已、甲書五〇七、五六四〔甲物三九〕)、〈2〉昭和六〇年六月一四、一五日のリクルートの全社部次長会議において、江副が、リクルートの幹部に対して、通産省が青田買いという新聞記事があったが、就職協定が遵守されず、就職の早期化が進むと、商機が短くなり、売上げに影響する旨スピーチしていること(甲書五二三)、〈3〉宮地文部事務次官(二九回)、井上日経連雇用課長(三三回)、後藤労働省職業安定局業務指導課職員(二三回)らは、新規学卒者向け就職情報誌は、就職協定による接触禁止期間中の大学卒業予定者と求人企業を結ぶ媒体として利用価値がある旨供述していること等の各事情からすると、就職協定の存続、遵守がリクルートブックの売上げに現実にどの程度影響を与えるかはともかくとして、江副をはじめリクルートの幹部が、就職協定が存続、遵守されないとリクルートブックの売上げ等に悪影響があるとの認識のもとに、就職協定の存続、遵守に向けて種々の活動をしていたことが明らかである。そして、これらの事情に、勝野は、前記各検察官調書において、就職協定の状況がリクルートの新規学卒者向け就職情報誌事業に与える影響について、前記認定に沿った具体的かつ合理的な説明をしており、その供述は十分信用できること、リクルートの事業部次長であった赤羽も、公判において、前記認定に沿う供述をしていること(五〇回・赤羽七二~八八項)、位田、大沢、辰已も、公判において、少なくとも就職協定と就職情報誌の発行、配本等の計画及び就職情報誌に対する法規制との関係については、前記認定を認める供述をしていること(三九回・位田九七~一四三項、四五回・大沢五八~七三項、五三回・辰已三四三~三六八項)等の事情を併せ考慮すると、就職協定の状況によって新規学卒者向けの就職情報誌の事業遂行に影響があるとは考えていなかったという江副、勝野、位田の前記各公判供述は信用することができない。

2 公務員試験合格発表日繰上げ案に対するリクルート内部における対応策の検討等

(一) 甲書五一〇について

リクルート社内で作成された文書である甲書五一〇・「1本年度の公務員採用スケジュール」には、作成日付けが昭和五九年三月一三日と記載され、「1本年度の公務員採用スケジュール、決定プロセス」の表題の下、「日経連が人事院、大蔵、通産、総理府と極秘裏に折衝中(内容は二次試験発表を10/15から10/1に早める。そのかわり10/1以前の学生との接触を自粛する。)」と記載されているなど、前記一認定のような日経連と人事院との間でされていた折衝の経過が正確に記述されている上、さらに「2今後の対応」の表題の下、「人事官に政治家ルートにより申し入れる」「試験日程の繰り下げ」「10/1以前の学生との接触をやめる」と記載されている。

ところで、井上日経連雇用課長は、公務員試験日程の繰上げに関して、日経連の担当者として人事院と折衝していたところ、森園人事院企画課長、中村内閣参事官、大蔵省、通産省の人事担当者と意見を交換した昭和五九年三月九日の前日、大阪でリクルートが主催した採用セミナーに出席したが、その際、位田に対して、法曹会館に公務員のことで呼ばれて明日その会合に出るので、明日は早く帰らなければならない旨話したことがあるが、前年から人事院と日経連との折衝経過について情報収集していた位田であるから、その会合が人事管理官会議の主要メンバーが集まり、公務員試験の合格発表日の繰上げを話し合う会合であることが分かったはずであると供述している(三三回・井上九九~一一五項)ほか、中村内閣参事官も、同月一〇日過ぎころ、かつて国会議員の秘書であったことから中村内閣参事官と面識があり、当時リクルート社長室に勤務していた小林裕子から電話を受け、昭和五九年度の公務員試験日程が繰り上げられるかどうかを聞かれて、合格発表日を繰り上げる予定であり、主要官庁と内々に折衝していると答えた旨供述している(甲書九一・中村)。

これらの各供述と前記二1に認定した就職協定に関するリクルートの考え方からすると、この甲書五一〇の記載内容は、関係者から情報を収集した上、人事院と日経連等との間で行われている折衝の経過等を正確に記述しているものであると認められる。

(二) リクルート関係者の捜査段階における各供述

リクルートの関係者は、検察官調書において次のとおり供述している。

位田は、昭和五九年三月一〇日前後の状況に関して、「日経連は、各省庁が一〇月一日以前に学生と接触することを禁止する代わりに公務員試験の合格発表日を繰り上げることに応じる予定であったが、リクルートとして公務員試験の合格発表日を繰り上げることは認められないので、政治家ルートで公務員試験日程の繰下げを申し入れ、そのため一〇月一日以前各省庁が学生と接触することの禁止が崩れては困るので、そのことも併せて働きかけることになり、江副とその直轄下の社長室が藤波先生にお願いすることになった。」旨供述している(甲書一三三・位田)。

勝野は、「辰已らとともに、国家公務員の採用スケジュールについて検討したが、その際官庁を民間の就職協定に組み込み、就職協定に足並みをそろえてもらうことが、就職協定の遵守をはかるうえから望ましいと話し合ったが、このような検討を行ったのは江副からの指示によるものであった。日経連は、主要官庁に根回しして、公務員試験の合格発表日を繰り上げることをのむ代わりに、官庁が就職協定に協力することを約束させようと考えていたが、位田、辰已の話によると、江副は、公務員試験の合格発表日を繰り下げて就職協定と足並みをそろえる徹底した改革が必要であり、総理大臣、官房長官に働きかけ、公務員試験の合格発表日を繰り下げるとともに、官庁の青田買いを防止するように各省庁の人事担当者に指示してもらうことを考えており、そのことは、位田から、江副が昭和五九年二、三月ころの取締役会で指示したと聞いていた。甲書五一〇は、私がリクルート事業部内での検討結果をまとめたものであるが、今後の対応の部分は江副の指示であり、政治家ルートというのは首相官邸筋ということで、当時の藤波官房長官を指している。」旨供述している(甲書一五三・勝野)。

大沢は、「甲書五一〇は、会合で議題になったことをまとめたものであると思われ、取締役会において、辰已か江副からこの件について説明があったと思うが、その内容は、日経連が各省庁に学生との接触を自粛してもらうように人事院、総理府と交渉しており、政府は公務員試験の発表日を繰り上げようとしているところ、各省庁と学生との接触の自粛と公務員試験日程の繰下げの双方が必要であるから、江副が行うか、江副が道筋をつけて社長室等が担当することにより、官庁の青田買いの自粛と公務員試験の繰下げを藤波官房長官に陳情していくというものであった。」旨供述している(甲書一四二・大沢)。

辰已は、「リクルートの取締役会では、内閣総理大臣、官房長官に対して、各省庁の人事担当者に官庁の青田買いの自粛を指導してもらうとともに公務員試験の実施日を繰り下げてもらうことを協議した。」旨供述した上、公務員試験の日程を繰り下げることが就職協定の遵守に好ましい影響を与える根拠について説明している(甲書五七八・辰已)。

これら位田をはじめとするリクルートの関係者の捜査段階における各供述は、公務員試験日程の繰下げなのか、公務員試験合格発表日の繰下げなのかについて、必ずしも一致せず混乱があるものの、前記甲書五一〇の記載と照らし合わせて考えると、公務員試験日程の繰下げと官庁の一〇月一日より前の学生との接触禁止を被告人に陳情することをリクルートの基本方針としたことについては一致した供述をしていると見ることができる。

なお、位田(三九~四一、四三、四四回)、勝野(六四、六六、六七、七〇、七一回)、大沢(四五、四八、四九回)及び辰已(五四、五九回)は、いずれも公判において、前記各検察官調書は検察官の誘導によって作成されたものであり、昭和五九年当時リクルートが行った就職協定に関する対応状況については十分な認識がなかった旨供述し、甲書五一〇の作成経過、趣旨について検察官調書と異なった供述をしている。

しかしながら、これら四名の各公判供述は、〈1〉いずれも前記各検察官調書が検察官の誘導によって作成されたというのであるが、前記各検察官調書は、被告人に対して、公務員試験日程の繰下げと官庁の青田買いの防止の双方を働きかけることになった経緯、理由についてそれぞれが述べるところに相違があるなど、必ずしも同様の内容のものではなく、検察官の誘導のみによって、このような検察官調書が作成されたとは考えがたいこと、〈2〉リクルートにおいて就職協定に関する事項は事業部が担当していたところ、昭和五九年三月当時、位田は事業部担当の取締役、勝野は事業部の課長代理の地位にあり、大沢は、専務取締役として、社長室等の事務を担当し、取締役会での議事進行を行うなど、経理、財務以外の管理事務を行っていたのであり、辰已は、社長室長の地位にあり、就職協定に関する事項の検討にも参加していたのであって、これらの者のいずれもが、公判において述べるように、公務員試験合格発表日の繰上げ案に対するリクルートの対応についてよく知らなかったというのは、不自然であること等の各事情及び甲書五一〇の記載に照らし信用することはできない。

(三) 右(一)、(二)の各事情に、リクルートが公務員試験日程の繰下げ案を企業等に持ち歩いていたことについて、井上日経連雇用課長から、位田らリクルートの担当者が叱責された事実(三三回・井上、三九回・位田等)を総合すると、人事院と日経連との間の折衝により、公務員試験の合格発表日を繰り上げるとともに各省庁が一〇月一日より前に学生と接触することを禁止することが、昭和五九年三月、両者間等で合意されつつあったが、リクルートとしては、公務員試験の合格発表日を繰り上げることは容認しがたく、むしろ公務員試験日程を繰り下げるべきであるとの考えの下、公務員試験日程の繰下げと併せて一〇月一日より前の各省庁と学生との接触禁止を被告人に陳情することとしたものと認定することができる。

三 江副が被告人を公邸に訪問した昭和五九年三月一五日以降の江副、被告人の言動及びリクルートの動き

1 昭和五九年三月一五日江副から公邸訪問について報告を受けた松崎が作成した井上日経連雇用課長に対する伝言用メモ(甲物三六)の「江副氏としては、八月三日-一九日を一〇月一日以降にしてもらえば、うまくいくと考えておられ、藤波氏は、しかるべきところから陳情書がでれば考えるという返事であった由」との記載及び松崎の公判供述(三六回)によると、江副は、昭和五九年三月一五日、日経連に松崎を訪ねて、就職協定が遵守されるためには、公務員試験を一〇月一日以降に実施するように日程を繰り下げるべきであると考えているが、そのことを被告人に陳情したところ、被告人がしかるべきところから陳情書がくれば考えると答えたことを報告したこと、しかし、その報告では、一〇月一日より前の官庁と学生との接触禁止については全く触れられなかったことの各事実が認められる。

2 鹿児島人事院任用局長の公判供述(三七回)によると、鹿児島は、松崎との間で公務員試験の合格発表日の繰上げについて最終合意をした昭和五九年三月二一日の一週間くらい前、被告人から、人事院任用局長の部屋に電話があり、公務員試験の合格発表日を繰り上げる理由について問い合わせがあったので、各省庁が要望しており、学生に迷惑をかけないようにするためであって、日経連も納得しており、官庁も就職協定に合わせて採用活動をすることで理解をいただきつつあると説明したところ、被告人から官庁が就職協定に合わせて採用活動をするということについては全く質問がなかったことが認められる。

3 中村内閣参事官の公判供述(六八、六九回)、甲書二二五によると、〈1〉中村は、昭和五九年三月一九日、国会内の内閣官房長官室の被告人のところに朝のあいさつなどで行った際、被告人から、公務員試験合格発表日の繰上げについてどうなっているかという趣旨の質問があり、この点については、人事課長会議としては昔から要望してきたことであり、今回は、人事院が非常に尽力されて実現の方向にあることなどを説明したところ、被告人から、この問題はいろいろ反対もあるので注意して進めるように言われたので、近く人事課長会議において民間の就職協定に協力するという申合せをするつもりであると説明し、〈2〉その後、中村は、森園人事院企画課長から、人事課長会議で民間の就職協定に協力する旨の申合せをしてもらいたいとの申し入れを受け、そのことも被告人に報告し、〈3〉昭和五九年四月二七日、通産省の青田買いに関する新聞報道がされたが、中村がその事実関係を確認して、その後まもなく被告人に報告したところ、被告人は、中村に対し、十分注意するようにと述べ、〈4〉昭和五九年五月二七日、労働省の青田買いに関する新聞報道がされ、労働省から報告を受けた中村が、そのことを被告人に報告したところ、被告人は、中村に対し、困ったことだねと述べたこと、〈5〉しかし、右のように中村が被告人に対して報告した際に、被告人から官庁の青田買い防止について何か具体策をとるよう指示を受けた事実はないことの各事実が認められる。

4 当裁判所に証拠として提出されているリクルートの社内文書中、昭和五九年三月二八日の人事課長会議における申合せがされた後のものには、その申合せが江副の被告人に対する陳情やリクルートの働きかけの成果であることを示す記載は全くない。かえって、翌昭和六〇年一月二三日の取締役会議決定事項を記載してある甲書五二〇の記載によれば、就職協定に関して、「協定(決め手なし)」との項目の下、経済三団体に対する働きかけとか、臨教審との関係も含め文部大臣に就職協定に関する関心を深めてもらうこととか、就職協定セミナーの実施時期などが記載されているにすぎず、もし検察官が主張するように、リクルートにおいて、前記人事課長会議の申合せが非常に有り難く、また、それがリクルートの働きかけによる成果であると考えるのであれば、就職協定に関する昭和六〇年の取組についての文書にも、当然そのような方策について記載されてよさそうなものなのに、一切そのような記載がない。

四 昭和五九年三月一五日、江副が被告人を公邸に訪問した際の陳情内容

1 江副の捜査段階における供述の概要

江副は、平成元年四月三〇日付け検察官調書(乙書一四)において、昭和五九年か昭和六〇年の二、三月ころ、被告人を公邸に訪問して、「公務員の青田買いの問題が就職協定が遵守されない大きな原因になっており、社会問題にもなっています。これを何とかする方法はないでしょうか。官尊民卑ということもありますし、官側にきちんとしてもらいたいのです。公務員の青田買いについて何とかなりませんかね。」と公務員の青田買いの善処方をお願いし、また、「公務員試験の合否の発表時期をもっと遅らせるというようなことについては、可能なものでしょうか。どこにどのようにお願いしたらいいんでしょうか。」と相談し、被告人は、「公務員試験とか発表とかいう問題は、人事院ですかな。私は詳しいことはわからないが、官側だけが先に人を採るようなことは具合悪いですな。どうしたものか、一遍どこでどう決まっているのかというようなことも含めて調べてみますかな。官庁の青田買いの問題については考えておきましょう。」と述べて、江副の要望を受け止めたと供述している。

また、平成元年五月一四日付け検察官調書(乙書二五)において、昭和五九年三月、被告人を公邸に訪問し、「ところで今日お邪魔いたしたのは、大学生の就職に関して文部省の通達とか中雇対協の取決めなどの就職協定がありますが、官庁はそれとはお構いなしに、早い時期に採否を決めるなどしており、この公務員の青田買いの問題が、民間の就職協定が遵守されない大きな原因になっており、社会問題にもなっていて、また、私どもも非常に困っております。これを何とかする方法はないものでしょうか。官尊民卑という形になっておりますし、官側にきちんとしてもらいたいのです。公務員の青田買いについて、これを防止させるために何とかなりませんか。よろしくお願いします。」と公務員の青田買い防止について官房長官である被告人に何らかの方策をとってもらうようにお願いしたところ、被告人は、「考えてみましょう。」と答えたと述べ、被告人に公務員試験の発表時期の繰下げ問題について相談したことについては、前回供述したとおりであると供述している。

さらに、平成元年五月一九日付け検察官調書(乙書三〇)において、昭和五九年三月中旬ころ、被告人を公邸に訪問し、公務員の青田買いを防止するための善処方についてお願いしたところ、被告人は、これに対して、「考えておきましょう。」と言った旨供述している。

2 江副の公判供述の概要

これに対して、江副は、公判(一〇三~一〇五、一〇九、一一五~一一八回)において、おおよそ次のとおり供述している。

昭和五八年、人事院が公務員試験の合格発表日を繰り上げようとしたのに対して、日経連が、民間企業より先に官庁が内定を出すことになり不公平であると考え、反対したため、公務員試験の合格発表日の繰上げは実現しなかったが、被告人を訪問する昭和五九年三月一五日の数日前、辰已か位田から、日経連が人事院から前年同様公務員試験の合格発表日を繰り上げたいとの申し出が寄せられて困っているということを聞き、人事院に公務員試験日程を繰り下げるのが本来の姿であるということを聞いてもらうため、その筋道を尋ねようとして、被告人を訪問した。

公務員試験の日程について取締役会で協議したことはなく、日経連が官側と折衝して公務員試験の合格発表日の繰上げが動かしがたい状況にあるということは知らなかったし、被告人を訪問することについて事前に日経連と相談することもなかった。

昭和五九年三月一五日、被告人を公邸に訪問し、辰已か事業部が作成した公務員試験の日程を表にしたような簡単な資料を持参して、民間の不公平感を説明し、公務員試験の日程は就職協定と一致させるため繰り下げるのが望ましいが、その声を人事院に聞いてもらう方法を尋ねたところ、被告人は、しかるべきところから人事院に話がいくべき問題であり、調べてみると答えた。

公務員試験日程が繰り下げられると公務員の青田買いが防止され、公務員の青田買いが防止されると就職協定が守られるという認識はあったが、公務員の青田買い防止を相談に行ったわけではなかった。

検察官に対しては、公務員試験の日程に関して被告人に相談したのであり、公務員の青田買い防止についてお願いしたことはないと供述したが、検察官から、公務員試験を民間の就職協定と同じ日程にすることは、とりもなおさず公務員の青田買いの問題であるといわれ、押し切られて、被告人に対して公務員の青田買いの善処方をお願いしたという検察官調書が作成された。

3 そこで、江副の捜査段階、公判段階における各供述及び前記認定の関係事実を総合して、昭和五九年三月一五日、江副が被告人を公邸に訪問した際、どのような陳情をしたかについて検討する。

(一) 江副が公邸を訪問した後の江副及び被告人の言動(前記三1、2、3)によれば、

(1) 江副が被告人を公邸に訪問したその日に江副の訪問を受けた松崎は、もっぱら公務員試験日程の繰下げについて被告人に陳情してきたことの説明を受けたこと、

(2) 被告人は、江副の公邸訪問後、鹿児島人事院任用局長及び中村内閣参事官に公務員試験の合格発表日の繰上げについて問い合わせなどをした際、一〇月一日より前の官庁と学生との接触禁止や人事課長会議の申合せについて一切質問していないこと、

(3) 被告人から問い合わせなどを受けた鹿児島人事院任用局長及び中村内閣参事官は、被告人から公務員試験の合格発表日の繰上げはどうなっているかについて聞かれているが、このことは、江副が公邸を訪問した際、被告人に公務員試験の合格発表日が繰り上げられようとしていることを説明したことを物語っていること、

(4) 公務員試験の合格発表日の繰上げに関連して官庁の青田買い防止の善処方をお願いするため、わざわざ江副が被告人を公邸に訪問するというのは、人事院と日経連等との間で、当時、公務員試験の合格発表日の繰上げの条件として、就職協定を尊重して一〇月一日より前の官庁と学生との接触禁止について合意ができつつあった状況に照らし、不自然であり、むしろ、公務員試験の合格発表日の繰上げについて説明した上で、それでは困るので公務員試験日程を繰り下げる方策案を検討しているが、その実現のためにはどうしたらよいか相談したものと考えるのが自然であること、

以上の各事情が認められる。

(二) 江副の捜査段階の供述中、官庁の青田買い防止を被告人に陳情した供述部分は、「公務員の青田買いについて何とかなりませんかね。」とか、「公務員の青田買いについて、これを防止させるために何とかなりませんか。よろしくお願いします。」とか、「公務員の青田買いを防止するための善処方についてお願いした」とかいうものであって、いずれも抽象的であり、一〇月一日より前の官庁と学生との接触禁止や人事課長会議の申合せ等、具体的な官庁の青田買い防止策について言及していない。唯一言及しているのは、公務員試験の合格発表日の繰下げである(なお、前述の松崎メモなどからすれば、ここにいう公務員試験の合格発表日の繰下げは、合格発表日のみならず試験日も含めた広義の公務員試験日程の繰下げの趣旨と理解すべきである。)。しかし、江副が、甲書五一〇の記載にあるように、公務員試験日程の繰下げと一〇月一日より前の官庁と学生との接触禁止とを併せて被告人に陳情したとすれば、公務員の青田買い防止の善処方というような抽象的な表現の陳情にはならず、一〇月一日より前の官庁と学生との接触禁止について、もっと具体的な陳情をするのが自然であると思われる。そうだとすると、江副が官庁の青田買いについて言及したのは、公務員試験日程の繰下げを陳情する前提として、官庁の青田買いが民間の就職協定に及ぼす悪影響などについて説明したにすぎないのではないかと推測される。

このように考えると、平成元年四月三〇日付け検察官調書(乙書一四)中の、江副が被告人に対し、公務員の青田買いが就職協定が遵守されない大きな原因になっていると説明し、公務員の青田買いについて何とかなりませんかと言った上、公務員試験の合否の発表時期を遅らせるにはどこにどのようにお願いしたらいいのかと相談したという、江副と被告人間の話の流れは、それ自体として自然であり、理解しやすいものである。その後作成された検察官調書(乙書二五、三〇)の江副の供述は、被告人を訪問した時期が昭和五九年三月中旬に特定されていくとともに、被告人に陳情した事柄の重点が、次第に官庁の青田買い防止に移っていっているが、そこで述べられている官庁の青田買い防止についての陳情内容は、前述のとおり抽象的なものに終始しており、何ら具体化していないのは、とりもなおさず公邸における被告人と江副との間のやりとりには、官庁の青田買い防止について具体的なやりとりが一切なかったことを物語っている。しかも、平成元年五月一九日付け検察官調書(乙書三〇)においては、陳情したことが客観的に明らかになっている公務員試験日程の繰下げに関する陳情について一切触れられておらず、公務員の青田買いを防止するための善処方についてお願いしたとまとめられている。さらに、庄地検事作成の当該調書の原稿(甲物一二四)の記載によると、江副は、少なくとも一度は、「公務員の青田買いを防止するためになんとかして欲しい」の後に「具体的には」を挿入して「公務員試験の合格発表の繰下げのことなどをお願いしました」と文章を結び付けようとした形跡がうかがえる。これらによれば、江副が公判で供述するように、検察官から、公務員試験を民間の就職協定と同じ日程とすることは、とりもなおさず公務員の青田買いの問題であると言われて、押し切られて、検察官調書が作成されたのではないかとの疑いも払拭できず、これらの各検察官調書のこの点に関する内容は、そのまま信用するわけにはいかない。

右に認定した(一)、(二)の各事情を総合すると、昭和五九年三月一五日、江副が被告人を公邸に訪問した際の陳情内容は、民間の就職協定が遵守されない大きな理由の一つは官庁の青田買いにあることを説明した上、青田買いはなんとかなりませんかねなどと話をする中で、現在人事院と日経連等との間で合意されつつある一〇月一日より前の官庁と学生との接触禁止を条件とする公務員試験合格発表日の繰上げ案では防止策として不十分であるとして、むしろこの際、公務員試験日程を繰り下げるのが良策であり、その実現を図りたいが、そのためにはどこにどのように働きかけたらよいのか相談したものと推認される。

なお、この点に関する江副の公判供述中、日経連が困った立場に立っていることを配慮して被告人を訪問したと供述し、その際、リクルートの社内において検討されていた方針、人事院が日経連等との間で行っていた折衝の状況、日経連の方針などを事前に把握することなく、被告人を公邸に訪問したとの供述部分は、甲書五一〇の記載や位田をはじめとするリクルート関係者の捜査段階における供述に照らし到底信用できないが、被告人を公邸に訪問した際の状況に関する供述部分は、前記認定におおよそ沿うものである。

五 以上によれば、リクルートは、人事院と日経連等との間とで合意しつつある一〇月一日より前の官庁と学生との接触禁止を条件として公務員試験の合格発表日を繰り上げる案を聞知して、官庁による青田買いを根本的に防止する策としては、むしろ公務員試験日程を繰り下げるべきであると考え、これを基本方針とし、それと併せて一〇月一日より前の官庁と学生との接触禁止を政治家ルートに働きかけることにし、それを受けて、江副は、昭和五九年三月一五日、被告人を公邸に訪問し、官庁の青田買いはなんとかなりませんかねなどと話をする中で、前述の公務員試験合格発表日の繰上げ案では官庁の青田買い防止策として不十分であるとして、むしろこの際、公務員試験日程を繰り下げるのが良策であり、その実現を図りたいが、そのためにはどこにどのように働きかけたらよいのか相談したものと認められる。

これによれば、官庁の青田買い防止について、江副と被告人の間で話が出たことは間違いないが、それはあくまでも公務員試験日程の繰下げ方策を相談する前提として江副から話が出たものであって、それ以上に官庁の青田買い防止策に関する具体的な事項について請託する趣旨があったとするには合理的な疑いが残る。

これに対し検察官は、「大学や産業界の代表、行政機関、人事院などをも取り込んだ就職協定遵守のための新しい協議機関の創設に向けての努力などに現れている江副の就職協定遵守に関する発想等からすると、江副が被告人を公邸に訪問した目的は、公務員試験日程の繰下げについて人事院への意見具申の道筋を尋ねることにとどまるものではなく、国の行政機関において就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするよう尽力願いたい旨の請託をすることにこそあった。」とか「甲物四一等の記載から人事課長会議の申合せに強い関心を払っていたことがうかがわれ、これによれば被告人をして人事課長会議に働きかけさせようとしたことを推測させる。」などと主張している。しかし、江副が就職協定遵守に向けて種々の活動をしていたことは確かであるが、そのことから、公邸訪問の際に官庁の青田買い防止の善処方をお願いしたことを直ちに推認することはできず、また、公務員試験日程の繰下げ策自体も就職協定遵守策の一つであり、甲物四一の記載も、単にリクルートが公務員試験の合格発表日繰上げのスケジュールを把握していたことを示すものにしかすぎないから、いずれも前記認定を左右するものではない上、その他のリクルート社内文書中には、それ以上に人事課長会議にリクルートが働きかけたことを示すものはない。

したがって、検察官の右主張は採用できない。

第二節  昭和五九年三月二四日の位田らによるいわゆるフォローアップ訪問の有無

第一  当事者の主張及び当裁判所の判断

一 検察官の主張

リクルートの取締役であった位田は、江副の指示のもとに、昭和五九年三月二四日、被告人を訪問して、江副の請託に対する被告人の対応を確認したところ、被告人から、公務員試験日程の繰下げについては困難であるが、官庁の青田買い防止については適切な対処ができる旨の回答を得た。

二 弁護人の主張

位田は、リクルート事業部長の阿部、社長室の小野と共に、昭和五九年三月二四日、被告人を国会内の官房長官室に訪問したが、その際、江副の請託の結果を確認したことはなかった。

三 当裁判所の判断

位田は、阿部、小野と共に、昭和五九年三月二四日、被告人を国会内の官房長官室に訪問したが、その際位田らが江副の請託に対する被告人の対応を確認したことについては証明が不十分である。

第二  当裁判所が右のとおり判断した理由

一 検察官の主張を根拠づける唯一の証拠は位田の検察官調書(甲書一三四)であるところ、位田は、当該検察官調書において、位田ほか二名が昭和五九年三月二四日被告人を議員会館に訪問した旨の記載がある面会申込書(甲物五四)を示されての取調べに対して、次のとおり供述している。

被告人に会ったのは、公務員の青田買い防止に関する各省庁への指示と公務員試験の日程をずらすことについて、その結果を聞き、再度お願いすることしか考えられない。そのことは、江副もしくは社長室がそのことをお願いに行っていたと思うが、江副からその結果をフォローするように指示され、辰已、田中、赤羽のうち二名かそのうち一名と事業部の職員を同行して、事前にアポイントをとり、先方の指示に従って、議員会館に被告人を訪問したと思う。被告人から、公務員の青田買いについては希望どおりになるが、公務員試験の日程については難しいといわれたと思うし、そのことは江副に報告したと思う。

二 位田供述の信用性

1 関係各証拠によれば、次の各事実が認められる。

(一) 面会申込書(甲物五四)、位田、小野、阿部の各名刺(順に甲物五五、五六、五七)によると、昭和五九年三月二四日午後零時三五分ころ、位田、阿部、小野の三名が議員会館の受付において被告人に面会することを申し出て、議員会館の被告人の部屋を訪ねたこと。

(二) 柏木斉の公判供述(一三八回)、リクルートの社内誌RMB六四二号(一九八四年二月二二日号、弁書一一四)によると、リクルートが、社名を変更したため、昭和五九年三月二一日ホテルニューオータニにおいて、約一七〇〇名を招待して謝恩の集いを開いたこと。

(三) 参議院予算委員会会議録(昭和五九年三月二四日、弁書一四六)によると、昭和五九年三月二四日午後零時五〇分から参議院予算委員会が開かれ、被告人はその委員会において答弁に立っていること。

2 昭和五九年三月二四日の議員会館訪問に関する関係者の各供述は、次のとおりである。

(一) 小野は、公判(一二二~一二五回)において、昭和五九年三月二四日被告人を訪問したのは、数日前に行われたリクルートの社名変更の披露パーティーに被告人が出席したことに対してお礼を述べるためであり、大沢から指示され、位田、阿部と共に議員会館の被告人の部屋を訪ね、秘書に案内されて、地下のトンネルを通り、国会内の官房長官室に行き、そこで被告人と会い、短時間のうちにお礼を述べたが、その際公務員の青田買い、公務員試験の日程に関して話が出たことはなかった旨供述している。

また、小野が署名を拒否した検察官調書(甲書九六七)には、甲物五五、五六、五七の名刺は、昭和五九年三月二四日議員会館において被告人と名刺交換をしたときのものと思われるが、被告人を訪問した目的、被告人とのやりとりは覚えておらず、その際位田らが官庁の青田買いの自粛や公務員試験日程の繰下げをお願いした記憶はないと記載されている。

(二) 松木は、公判(一四一回)において、次のとおり供述している。

本件の審理を傍聴していたところ、甲物五五、五六、五七に私の字で「院内へ」と記載されていることを知り、記憶を喚起し、昭和五九年三月二四日当時、被告人の秘書として、議員会館の被告人の部屋で雑用をしていたが、その日、小野ら三名が訪ねてきたことを思い出した。小野以外の者と面識はなかったが、小野は非常に印象的で覚えている。その日、議員会館を訪ねてきた小野ら三名を、議員会館から地下のトンネルを通って国会の二階の官房長官室に案内した。小野ら三名はその場で被告人と短時間立ち話をして帰った。

私の名刺と同じく被告人の秘書であった澤木の名刺がリクルートから押収されており、澤木の名刺の裏面には「3/24水谷、徳田」と記載されているが、これらは、小野ら三名が訪ねてきたとき交換し、用件があれば秘書の水谷か徳田に連絡するように話したことをメモしたものであると思う。

3 そこで、以上を前提に位田供述の信用性について検討する。

(一) 位田の前記検察官調書は、その供述内容から、供述者の明確な記憶に基づいて供述されているものではなく、推測を交えて供述されているものと認められ、同行者に関する供述も事実に反するものである上、江副から指示を受けたとする根拠、江副の請託の結果を確認すべき必要性、被告人を訪問した状況などについて具体性のある供述をしておらず、そこで述べられている位田が被告人を訪問するに至った経緯、目的等についても、他の証拠によって裏付けられていない。したがって、その供述内容からしても、その信用性を直ちに肯定できるものではない。

(二) これに対して、小野、松木の前記各公判供述は、次の諸点から、信用性が高い。

(1) 位田ら三名が議員会館の被告人の部屋を訪問してから被告人に会うまでの経過に関する小野、松木の各公判供述は、位田らが昭和五九年三月二四日議員会館の受付において被告人に面会することを申し入れていること、他方で、被告人は、同日、位田らが面会を申し入れた一五分後に開かれた参議院予算委員会において答弁に立っていると認められること、甲物五五、五六、五七には「59、3、24院内へ」と記載されていることなどと符合している。

(2) 中村内閣参事官の公判供述(六八回・中村一七九~一八一項、六九回・中村三~八項)によると、国会内の官房長官室と内閣参事官室は隣り合わせであり、その境のドアは通常開いていて、出入りが自由にできる状態にあると認められ、これによれば、被告人に位田ら三名が、江副の請託の結果を確認する場所としては、ふさわしくないと考えられる。

(3) 位田ら三名が被告人を訪問する三日前リクルートの謝恩の集いが行われているところ、位田らは、国会内の官房長官室において答弁に立つ直前の被告人に短時間会ったにすぎないことなどからすると、位田らがリクルートの謝恩の集いに出席したことに対するお礼のため被告人を訪ねたというのも、あながち不自然ではない。

(三) 以上(一)、(二)に述べた各事情に、江副が、検察官調書(乙書五四)において、昭和五九年三月中旬、被告人を公邸に訪ね、公務員の青田買い防止について陳情し、同月下旬、位田らが被告人に面会しているが、請託の結果を確認するように指示したことはなく、請託の結果を確認するのであれば、私が直接被告人に電話をすればよいのであって、位田らを差し向ける必要はない旨供述していること、位田らが、被告人に請託の結果を確認したのであれば、当然リクルート社内文書にその旨報告されたことを示す記載が残っていてよいはずなのに、当裁判所に証拠として提出されている昭和五九年三月二四日以降のリクルート社内文書にはそのような記載は一切ないこと及び位田の公判供述を総合考慮すれば、位田の前記検察官調書における供述は信用できない。

したがって、位田が、阿部、小野と共に、昭和五九年三月二四日、被告人を国会内の官房長官室に訪問したことは認められるが、その際位田らが江副の請託の結果を確認したことについては証明が不十分である。

第三節  昭和六〇年三月の請託の有無等

第一  当事者の主張及び当裁判所の判断

一 検察官の主張

リクルートの専務取締役であった田中、社長室長であった辰已は、昭和六〇年三月上旬、江副の指示のもとに、被告人を公邸に訪問して、人事課長会議で国の行政機関の青田買い防止を徹底するなど、国の行政機関が就職協定の趣旨に沿った適切な対応をするように尽力願いたい旨請託し、これと併せて企業の青田買い防止を臨教審において取り上げてもらうことを陳情した。

二 弁護人の主張

田中、辰已が、昭和六〇年三月上旬、官庁の青田買い防止を請託するために、被告人を訪問した事実はない。

三 当裁判所の判断

昭和六〇年三月上旬、江副の指示により、田中、辰已が被告人を公邸に訪問した事実は認められる。しかし、その際の陳情内容は、臨教審で青田買い問題を取り上げてもらうことにその重点があったのであり、官庁による青田買い防止の善処方について話があったとしても、それは、臨教審において青田買いの問題を取り上げてもらうことの陳情の前提としてか、あるいは、それに付随して話が出たものと推認される。したがって、官庁の青田買い防止の善処方を請託したことについては合理的な疑いが残る。

第二  当裁判所が右のとおり判断した理由

一 昭和六〇年三月上旬に田中、辰已が被告人を公邸に訪問した事実の有無

1 昭和六〇年度就職協定に関する松崎の発言

関係各証拠(甲書一二三・辰已、甲書一五四・勝野、甲物四六等)によれば、次の事実が認められる。

昭和六〇年一月二一日開催された中雇対協で、昭和六〇年度就職協定を一〇月一日会社訪問解禁、一一月一日試験開始とする一〇-一一協定を継続することが確認された。しかし、同日行われた記者会見で、中雇対協座長である松崎は、「協定問題については、完全に熱意を失っている。九割の人が協定を守っていなかった。しかし、九割の人が協定を続けろと言っている。紳士協定を結びながら、それが守られず、より一層混乱するから必要だとする認識はおかしい。しかし、傘下の企業が作れと言えば、サービス団体としてノーとは言えない。それゆえ、一〇-一一協定を継続することをここで決定する。」旨発言した。

2 臨教審における審議等

関係各証拠(二五、二六回・齋藤、二七、二八回・石川、甲書四〇九、四一二、四一五~四一八、四二一、四二五~四三〇、四三四~四四〇、甲物二九)によれば、次の各事実が認められる。

(一) 昭和五九年八月二一日、総理府に、総理大臣からの諮問に応じて、教育制度の改革について調査、審議するための機関である臨教審が設置され、学歴社会と人材登用の在り方に視点を当て調査、審議を行った。

臨教審は、第一部会から第四部会までの四つの部会を設け、第一部会は教育の理念等の基本的な考え方、第二部会は教育機関の活性化、家庭教育、生涯教育などの問題、第三部会は初等中等教育の問題、第四部会は高等教育の問題を検討した。

(二) 江副は、昭和六〇年一月二一日、臨教審第四部会において、企業、経済活動での学歴社会の問題は衰退傾向にあるが、学生の就職行動、意識において学歴社会の問題が残っており、そのことは、企業の採用において、大学の成績が考慮されず、青田買いが行われるなどの問題につながっているため、大学の教育活動を評価し、活性化することが必要であるという意見を述べている。

さらに、江副は、昭和六〇年一月二六日、臨教審第二部会において、昇進とか昇格などの労働経済的な側面では学歴格差の程度は低いが、例えば、官庁等の採用において、学生、社会の行動意識として学歴意識が残っており、その結果、青田買い、大学の成績が就職に反映されていないなどの問題があるため、大学教育を活性化する必要があるという意見を述べている。

(三) 臨教審は、昭和六〇年三月ころ、答申において指定校制、青田買いの問題に触れるべきかどうかについて、委員の間で意見が対立したが、その意見を調整し、新聞報道などの世論の動向を踏まえるとともに、学歴社会と受験戦争の緩和の二点を柱とした分かりやすい答申を目指して検討を進めた。その結果、昭和六〇年六月二六日示された第一次答申のなかにおいて、学歴社会の是正策として、青田買いを改め、指定校制を撤廃することにより、多様な人材を採用することが必要であると指摘された。

3 昭和六〇年度就職協定に対するリクルートの取組

リクルート社内において作成された文書である甲書五二〇には、就職協定に関連して、「協定(決め手なし)」との表題の下、「〈1〉経済三団体中心にテコ入レ。特に、日商、中央会とのリレーションを強め、会合の場においての発言力を高めてもらい、井上課長を鼓舞させる。」「〈2〉文部大臣とのトップリレーションを深め(江副、位田T)、協定への関心を深めてもらう。(大学での成績が就職先と深く関係させ、大学で勉強させるようにする、臨教審と協定との関係)」「〈3〉就職協定セミナーはタイミングをみて実施する。(東京、大阪)今年の採用戦線と協定とのような形にすることも考える。」と記載されている。

この書面に関連して、

〈1〉 位田は、平成元年五月一六日付け検察官調書(甲書一三六)において、「昭和六〇年の一月ころまでには、政府の諮問機関として臨教審が設置されて、その中の第二部会で学歴社会問題や生涯教育問題について議論がなされることは、新聞記事などでわかっておりました。また、江副が、その臨教審のヒアリングで意見を述べるということもT会議などの席上で話が出たと思います。一月の二〇日前後ころには、中雇対協で六〇年度の就職協定が従来どおり一〇-一一協定と決まりました。これは、企業側と学生側の接触する求人活動開始日を一〇月一日とし、採用選考の開始日を一一月一日とするものでした。問題は、その協議会の座長であります日経連の松崎専務が、『私は就職協定について全く熱意を失ってしまった。協定の存続を望む者は九割もいるのに、九割が協定は守られていないと答えている。』などと発言したことです。昭和六〇年度の就職協定は、大学側と文部省側の就職問題懇談会において決議されて一〇-一一協定の成立をみることになるわけですが、昭和六〇年度も青田買いの傾向がますます強くなり、就職協定が打ち切りになってしまうおそれが前年度に増して強くなってきました。そのころに江副が、臨教審のヒアリングに出て、学生に勉学をさせるためには、就職協定の存続とその遵守が必要だという意見を述べたのでした。このことは、取締役会か何かの会議で江副から聞いております。このころに、臨教審で就職協定の問題を取り上げて答申の中に盛り込んでもらう話が、江副の方からあったと思うのです。この甲書五二〇は、一月二三日に開かれた取締役会議に出た議題を私がメモもしくは記憶に基づいて、そのころ勝野に書いてもらったものだと思います。就職協定問題については、有効な決め手がないという意味のことが書いてあり、今後は私と江副とが担当して、文部大臣に協定についての関心を深めてもらうよう働きかけることが決まりました。その際に、江副の方から、臨教審と就職協定をどのようにとらえるのかという話があったように記憶しております。つまり、臨教審は、教育の在り方を議題にして、大所高所から将来の教育の在り方について意見を出すところでありますから、就職協定や青田買いが教育の基本問題とはいえず、これが議題にならないことや、なったとしても臨教審の答申の中に就職協定の存続と遵守ということが盛り込まれない可能性がありました。ところが、もし、その答申の中に青田買い防止などの言葉で就職協定の存続とその遵守が盛り込まれれば、就職協定の存続と遵守に向けて錦の御旗をいただくことにもなると思われました。そのために江副は、『就職協定の問題を臨教審で取り上げてもらって答申の中に盛り込んでもらうという方法はどうか。就職協定の問題は学生の勉学環境を良くするためにも必要なことで、臨教審の議題として考えられるのではないか。』という意味のことを言ったと思います。このような話の内容が、先程の甲書五二〇の臨教審と協定との関係と書かれているところだと思うのです。このT会議の席上だったか、あるいは別のT会議だったかははっきりしませんが、臨教審の関係者に就職協定の必要性をご理解いただいて、臨教審で議論していただき、答申の中にそれを盛り込んでいただくということで働きかけをすることになりました。」と供述しているし、

〈2〉 勝野は、平成元年五月一五日付け検察官調書(甲書一五四)において、「昭和五九年の秋から暮れにかけて、その夏に総理大臣の諮問機関として設置された臨教審において、審議が始まり、その中で学歴社会の偏重問題が取り上げられるに至ったのです。そして、そのころの取締役会で、江副社長が、臨教審の場で学歴偏重の是正策として、就職協定の存続と遵守が必要であることを答申に盛り込んでもらうように関係機関に働きかける旨の指示があったのでした。そのことは、当時、位田取締役や辰已社長室長あたりから聞いたと思います。そのようなわけで、昭和六〇年に入り、一月中旬ころには、江副社長が臨教審のヒアリングに出席し、『学歴社会と雇用について』と題し意見を述べたのでした。その内容は、就職協定が遵守され、学業成績が就職の際に重視されるようになれば、学生も勉学に励むようになるというようなことでした。それは、学歴偏重の是正を訴えるときに、就職協定をきちんと守らせることが必要であるとの意見が必然的に出てくるもので、それは、リクルートの営業方針にも適うもので、当時、私達プロジェクトチームのメンバーも、この江副社長のヒアリングでの意見を話題にし、これが答申に盛り込まれることを期待したのです。また、ちょうどそれと同じ時期ころに、中雇対協の座長である日経連の松崎専務が、中雇対協で六〇年度の就職協定を一〇-一一協定とする旨記者会見で発表したものの、就職協定については、完全に熱意を失っているとも発言したのでした。そこで、リクルートでは、その数日後のT会議において、就職協定の存続と遵守に危機意識を持ち、江副社長自らが文部大臣とのトップリレーションを深めて、就職協定について関心を深めてもらうことを決めたのでした。これは、文部大臣に働きかけ、臨教審において、学歴偏重の是正という角度からアプローチしてもらい、その是正のためには、就職協定が存続され遵守されることが必要であることをその答申に盛り込んでもらおうということでした。当時、私は、この取締役会に出席した位田取締役からその決定事項を聞いた記憶があるのです。甲書五二〇は、私が当時、位田取締役から一月二三日の取締役会の決定事項を聞かされて、その内容を書いたものであります。私の字になるもので間違いありません。この中で『協定(決め手なし)〈2〉文部大臣とのトップリレーションを深め(江副、位田T)協定の関心を深めてもらう(大学での成績が就職先と深く関係させ、大学で勉強させるようにする、臨教審と協定との関係)』との記載がありますが、これは、就職協定問題は、中雇対協や就職問題懇談会のレベルで検討していても、その遵守策についてなかなか決め手がないこと、それで江副社長と位田取締役とが中心になって文部大臣に直接働きかけ、臨教審の答申の中に学齢偏重是正策として、就職協定の存続・遵守が必要であることを盛り込ませるという決定内容を書いたものです。就職協定をこのプロパーな問題として扱ってもなかなか決定打を欠く上、リクルートがその営業に必要なために、その存続と遵守の必要性を、前面に出て説いて回るのもいかにも企業として利潤追求で走っていると見られがちですが、臨教審における答申の中で学歴偏重の是正策として就職協定の存続と遵守を盛り込めば、これは世間の誰からも異論のないことであり、しかも、これが国家の政策として取り上げられるわけですから、こんなに強力なものはないわけで、リクルートの要求が国家政策として実行されるにも等しいものになることでした。その記載の『大学での成績が就職先と深く関係させ、大学で勉強させるようにする、臨教審と協定との関係』という意味は、まさにその辺のところを説明したものでした。臨教審は、内閣総理大臣が諮問し、内閣官房長官が実質的に取り仕切って委員らに審議させて答申させるものであり、したがって、答申にこのことを盛り込ませるためには、当然にこれら関係者に強く働きかけることが必要であり、こうなるとこれはまさに江副社長マターとなるわけで、そのことが臨教審でのヒアリングで就職協定に関して関連させて意見を述べ、また、取締役会でこれに向けて陣頭指揮をとったもので、そのことは、この私が書いた一月二三日付けT会議決定事項(甲書五二〇)によく現れているのです。」旨供述し、

〈3〉 辰已は、平成元年五月一九日付け検察官調書(甲書一二四)において、また、田中も、同日付け検察官調書(甲書一三一)において、昭和六〇年度就職協定に関する松崎発言の受け止め方、昭和六〇年一月二三日の取締役会における検討、甲書五二〇の記載の趣旨等について、右の位田及び勝野の各供述と同旨の供述をしている。

ところで、これらの供述は、相互に一致している上、臨教審における審議の経過、甲書五二〇とも符合し、それ自体として自然であって、十分に信用できる。これに対し、位田、勝野、辰已、田中は、公判において、捜査段階における供述を後退させ、その一部の内容について記憶がないなどと供述しているが、位田らがリクルートにおける就職協定に関する取組において果たしていた役割、甲書五二〇の記載内容等に照らして、これらの各公判供述は信用できない。

以上によれば、昭和六〇年一月二一日の松崎発言を受けて、昭和六〇年一月二三日の取締役会において、昭和六〇年度の就職協定を遵守させるための方策を話し合った際、江副から、国家的プロジェクトである臨教審で青田買いについて議論してもらい、そのことを臨教審の答申に盛り込んでもらえれば、それをてこにして就職協定の存続、遵守に関する行き詰まりを打開できるので、その答申に盛り込んでもらえるように、関係者に働きかけようと提案されて話し合われ、その話し合いの結果に基づき、その後関係者への働きかけが行われたことがうかがえる。

4 昭和六〇年三月上旬の田中、辰已による公邸訪問に関する関係者の各供述

(一) 公判において、江副、辰已、田中は、昭和六〇年三月上旬の田中、辰已による公邸訪問の有無に関して、おおよそ次のとおり供述している。

江副は、「捜査段階では、昭和五九年三月一五日の公邸訪問は一人で行ったと供述していたが、公判準備のため弁護士と打合せをした席上で、小野から、小野がアポイントを取って、辰已とリクルート一〇階で待ち合わせをして、辰已と共に公邸に向かったと言われて、記憶を喚起し、公邸には辰已と共に行ったことを思い出した。」旨供述している。

辰已は、「公邸には一度しか行ったことがないが、それが昭和五九年だったか昭和六〇年だったか明確な記憶はない。また、同行者も誰だったかはっきりした記憶はない。江副の可能性もあり、田中ではないように思うが、その可能性も否定しきれない。」旨供述している。

田中は、「江副から指示を受けて、辰已と共に公邸を訪問したことは一度もない。」旨供述している。

(二) 江副ら三名のこの点に関する捜査段階の各供述

(1) 江副は、平成元年四月二二日付け(乙書一〇)、同月三〇日付け(乙書一四)、同年五月六日付け(乙書一六)、同月一三日付け(乙書二四)、同月一四日付け(乙書二五)各検察官調書において、昭和六〇年三月ころ、田中、辰已が、被告人に官庁の青田買い防止を陳情した旨供述し、平成元年五月一一日付け検察官調書(乙書二二)において、田中、辰已が、取締役会の決定で、昭和六〇年二、三月ころ、被告人に対し、就職協定の問題、具体的には公務員の青田買い防止等について善処方を陳情したが、臨教審の答申に青田買いの防止と就職協定の存続、遵守が盛り込まれることが望ましいということは、あからさまにお願いしたつもりはない旨供述しているが、平成元年五月一七日付け検察官調書(乙書二六)において、昭和六〇年三月初旬ころ、私の指示で、田中、辰已が被告人に対し、公務員の青田買い防止や臨教審でのこの問題の取り上げなどにつき善処方を陳情した事実がある旨供述している。

その後、江副は、平成元年五月一八日付け検察官調書(乙書二七)において、昭和六〇年三月初旬か中旬ころ、リクルート本社の一〇階にある社長室の応接室に、田中と辰已を呼び、前の取締役会において決まったように、被告人に公務員の青田買いを防止するということでお願いに行ってくれないかと頼み、さらに二人に対し、被告人に臨教審の答申でもしその問題に触れてもらえば有り難いということを頼んで来てくれないかと指示した旨供述している。

さらに、平成元年五月一九日付け検察官調書(乙書三〇)において、昭和六〇年二月か三月ころと思うが、取締役会で公務員の青田買いのことが話し合われ、その結果、私は、被告人に再度公務員の青田買い防止等につきお願いし、併せて公務員の青田買い防止の問題と臨教審との関連についてもお願いするよう、田中、辰已に指示して、被告人に会いに行かせている旨供述している。

(2) 辰已は、平成元年四月一〇日付け検察官調書(甲書六七九)において、時期は覚えていないが、田中と共に、被告人を公邸に訪問し、官庁の青田買い防止のための具体的な方策についてお願いしたと供述し、同月一六日付け(甲書六八三)、同月一九日付け(甲書六八八)各検察官調書において、昭和六〇年一、二月ころ、取締役会の決定か、江副から田中と共に呼ばれて指示を受けたか覚えていないが、田中と共に被告人を公邸に訪問し、就職協定の歴史や現状、労働省、通産省の青田買いについて説明し、各省庁の人事担当者を集めて青田買いをしないように徹底していただきたいとお願いした旨供述し、平成元年五月一五日付け(甲書五七八)、同月一六日付け(甲書六九四、ただし、江副から指示を受けた状況については触れられていない。)、同月一七日付け(甲書一二三)各検察官調書において、昭和六〇年三月初めころ、田中と共に江副に呼ばれ、臨教審のことや官庁の青田買いの問題のことで被告人にお願いするように指示され、田中と共に被告人を公邸に訪ね、田中が被告人に対し、本年も各省庁の会議で青田買い防止を徹底していただきたいこと、臨教審の方でもよろしくお願いしたいことを陳情した旨供述している。

その後、辰已は、平成元年五月一九日付け検察官調書(甲書一二四)において、昭和六〇年三月初旬ころであったと記憶しているが、私と田中は、江副から社長室に呼ばれ、被告人に会って、昨年同様官庁の青田買いを防止して欲しいとお願いに行って来るように頼まれ、さらに、この前の取締役会で決まったように、臨教審の答申の中に青田買いのことを盛り込んでいただければ有り難いとお願いしてくれないかなどと言われたが、その年は、江副が私達に指示したとき、「昨年は私がお願いに行っているが。」と話していること、私と田中は、昭和五九年四月下旬及び同年五月下旬ころ出た通産省や労働省が青田買いをしたとの新聞記事の写しを被告人のところに資料として持って行っていることから、昭和六〇年に間違いなく、その時期は、昭和六〇年四月一〇日の人事課長会議の約一か月くらい前であったという記憶があり、昭和六〇年三月二日、江副が中曽根総理大臣と首相官邸で会っているが、その会談の前後ころであったという記憶がある旨供述している。

さらに、平成元年五月二〇日付け検察官調書(甲書六九五)において、田中以外の者と被告人に陳情に行ったことはなく、陳情の場所が公邸であることは間違いない旨供述している。

(3) 田中は、平成元年四月二四日付け(甲書六三二)、同月二七日付け(甲書六三三)各検察官調書において、昭和五九年三月ころ、リクルートでは、官の採用日程を民間が学生と接触する後にしてもらうのが望ましいと考え、各省庁の人事担当者らに就職協定に悪影響を及ぼすような活動をさせないように働きかけてもらうことを決め、辰已と共に被告人を議員会館に訪問し、各省庁の人事担当者に青田買いをしないように手配してもらうこと、公務員試験の日程を繰り下げることをお願いした旨供述し、平成元年五月一三日付け検察官調書(甲書六三五)において、昭和六〇年二、三月ころ、辰已と共に被告人を訪問し、前の年と同じように青田買いをしないことを各省の人事担当者に話してもらいたいこと、青田買いと就職協定の問題を臨教審で取り上げていただきたいということを話したのであり、被告人を訪問した場所は議員会館ではなかったかという気がするが、首相官邸だったかもしれない旨供述している。

その後、田中は、平成元年五月一九日付け検察官調書(甲書一三一)において、次のとおり供述している。

昭和六〇年三月ころ、私と辰已が江副から被告人への陳情を指示されたと思うが、その時期が昭和六〇年三月ころであるというのは、陳情の一つに臨教審のことも入っているという記憶であり、各省庁間の青田買いをやめさせるようにという人事課長会議の申合せの時期からすると、二月では早すぎるし、四月では時期を失してしまうと思われるからである。私と辰已が、江副が執務している社長室に呼ばれ、今年も官庁の青田買いについて被告人にお願いしたいと思うので、行ってきてくれないか、臨教審で青田買いを取り上げてもらうことができないかどうかもお願いしてきてくれないかと指示された。被告人に各省庁の青田買いを自粛するようにお願いすることは簡単に説明できると思ったが、臨教審で青田買いを取り上げてもらうことの話の持ち出し方は、被告人が、文部省の政務次官を歴任されて文教族の一人と言われ、その方面の造詣も深いと思われたことから、大変だと思い、その説明方法をいろいろ考えて悩んだのを覚えている。被告人と会った場所は、議員会館であった気もするが、あるいは公邸であったかも知れない。被告人に対する陳情内容のうち臨教審の関係は、それまでどのように話せばいいのかいろいろ考えたが、臨教審では教育の基本問題を検討すると理解していたので、青田買い問題などをどのようにドッキングさせるのがよいのかということについての考えが今一つまとまらなかった。話そうとした時は緊張してしまい、考えていたことの一〇分の一も話せず、私としては、大学における就職協定を無視した採用が大学教育を歪めているということをもっと説得力のある、しかも、簡潔な内容で話したかったにもかかわらず、わけがわからないような話になってしまったが、藤波先生は、このような私の話をじっと聞いて、うなずいており、大役が終わってほっとしたのを覚えている。

5 右1、2、3、4の各事情を総合して、昭和六〇年三月上旬の田中、辰已による公邸訪問の有無を検討する。

(一) 江副、田中、辰已の捜査段階における各供述は、当初、官庁の青田買い防止の善処方を被告人に陳情するため田中、辰已が公邸を訪問したと供述していたのが、その後、平成元年五月中旬に至って、それと併せて臨教審の答申で青田買いの問題を取り上げてもらうことを陳情した旨供述するに至っている。また、辰已、田中のほか位田、勝野も、それと同じころ、甲書五二〇に関連して、リクルート社内における昭和六〇年度就職協定に対する対応の検討状況を詳細に供述し、その中で国家的プロジェクトである臨教審で青田買いについて議論してもらい、そのことを臨教審の答申に盛り込んでもらえれば、それをてこにして、就職協定の存続、遵守に関する行き詰まりを打開できるので、その答申に盛り込んでもらえるように関係者に働きかけることになった旨供述している。

これによれば、捜査の焦点が、臨教審に関するリクルートの対応に当てられつつあったのは、平成元年五月中旬であり、江副ら三名は、それ以前から田中、辰已が公邸を訪問した事実を認めながら、その公邸訪問の際、被告人に臨教審に関する陳情をしたことを一切供述していなかったのに、平成元年五月中旬になって、検察官の追及を受けて、被告人に臨教審に関する陳情をしたことを認めるに至ったことがうかがえる。そして、臨教審に関する陳情について、リクルートの関係者が、当初、その供述を渋っていたことは、江副が、平成元年五月一一日付け検察官調書(乙書二二)において、「田中、辰已が、取締役会の決定で、昭和六〇年二、三月ころ、藤波先生に対し、就職協定の問題、具体的には公務員の青田買い防止等について善処方を陳情したが、臨教審の答申に青田買いの防止と就職協定の存続、遵守が盛り込まれることが望ましいということは、あからさまにお願いしたつもりはない。」旨供述していたのが、平成元年五月一七日付け検察官調書(乙書二六)において、私の指示で、田中、辰已が被告人に対し、青田買い問題を臨教審の中で取り上げてもらうことも陳情した事実があると供述を変更していっていることなどからうかがえる。

これらの事情からすると、平成元年五月中旬においては、田中、辰已による公邸訪問があったことは、取調べに当たっていた検察官及び取調べを受けていたリクルート関係者の両者とも当然の前提とした上で、その公邸訪問の際、青田買い問題を臨教審で取り上げてもらうことを陳情したことがあったかどうかに的を絞って捜査されていたものと考えられる。そうだとすると、青田買い問題を臨教審で取り上げてもらうことを陳情した事実が実際になかったとすれば、捜査の焦点がそこに当てられていることを意識しながら、江副、田中、辰已の三名が一致してその事実を認めるはずはないと考えられるところ、それまでそれぞれが異なった事実を供述していたその三名が一致して、公邸訪問の際、青田買い問題を臨教審で取り上げてもらうことを陳情したことを認めているということは、実際にそのような事実があったことを裏付けていると認められ、それによれば、とりもなおさず、その公邸訪問の時期は、リクルートが臨教審のことを念頭に置いて就職協定の対策を検討していた昭和六〇年三月上旬であることになる。

(二) 辰已が、江副と共に昭和五九年三月一五日、被告人を公邸に訪問したとすれば、その際の陳情内容は、公務員試験日程の繰下げが主なものであったから、辰已の検察官調書における公邸訪問の際の陳情内容に関する供述中に、公務員試験日程の繰下げに触れた部分があってもよさそうなものなのに、それに触れた部分は一切ない。このことは、辰已の公邸訪問の時期が、昭和五九年三月一五日ではなかったことを推測させる。

(三) 辰已が、真実、昭和五九年三月一五日、江副に同行して被告人を公邸に訪問したのであれば、公判において、そのことを明確に供述してよさそうなのに、そのような供述はしておらず、同行者について、あいまいな供述に終始しており、「被告人を訪問する前に江副から指示を受けたのではないかと推測できるし、公邸から戻った時江副にそのことを報告したのではないかと思う。」(五六回・辰已四九八、六〇三~六〇五項)旨述べながら、「江副の可能性もあり、田中ではないと思うが、その可能性も否定できない。」(五九回・辰已六八~七一、二九三~三〇七項)旨供述しているのであって、辰已の公判供述中、公邸訪問に際しての同行者に関する部分は、それ自体不自然である。

(四) 田中の平成元年五月一九日付け検察官調書(甲書一三一)における公邸訪問の経緯、その際の状況に関する供述部分は、江副から指示を受け、臨教審において青田買いの問題を取り上げてもらうため、どのような説明をすべきか自分なりに悩み、被告人にそのことを説明するのも思うようにいかなかったが、ともかく説明が終わって安心したことなど、体験者でなければ述べられないような具体的かつ迫真性のある供述であって、信用性が高い。

(五) 江副の公判供述中、昭和五九年三月一五日、辰已と共に被告人を公邸に訪問したという部分は、公判において唐突に供述されたものであり、捜査段階では、その公邸訪問について検察官から種々追及を受けながら、辰已を同行させて被告人を公邸に訪問したことは思い出さなかったというのであって、それ自体不自然である上、辰已と共に被告人を公邸に訪問したことについては、保釈後、公判準備のための席上、小野から指摘され思い出したというにすぎず、それ以上に辰已を同行させたことを根拠づける事実を述べているわけではなく、信用できない。

以上に検討したところによれば、田中、辰已が公邸を訪問したのは、昭和六〇年三月上旬であることが明らかである。

なお、小野は、公判(一二二、一二三、一二五回)において、「江副が被告人を訪問する数日前、江副の指示で、徳田に連絡してアポイントをとり、徳田から被告人を訪問する日時、場所について指示を受けた。その後、辰已が同行することになったが、辰已は、それまで公邸を訪問したことがなく、江副のエスコート役であったため、公邸の入り方、レイアウト、その他徳田からいわれたことを伝えた。当日早朝リクルートで待っていると、江副、辰已が出社してきて、柏木と共に地下の車止めから公邸に向かうのを見送った。地下に降りる途中、辰已に公邸の入り方を話したとき、辰已が緊張した表情であったのを覚えている。社用車は私が手配し、上野和男が運転しており、江副、辰已が被告人を訪問した目的は知らなかった。平成元年秋、リクルートの会議室において、弁護人が同席して、裁判の準備のため打合せをしていた際、江副から昭和五九年被告人を訪問したときの同行者について尋ねられ、辰已が一緒であったと答えた。」旨供述し、江副の専属運転手である上野和男は、公判(一三八回)において、「いつもより朝早く江副を自宅に迎えに行き、途中リクルートに寄って、公邸まで送ったが、そのときは同行者がいた記憶はなく、公邸からの帰途、同行者を一名乗せ、その人が用事があるというので、地下鉄霞ケ関駅で降ろした記憶がある。」旨供述し、昭和五八年六月から昭和五九年四月までの間、社長室において、江副の身近で秘書的な仕事をしていた柏木斉は、公判(一三八回)において、「江副が午前九時の始業前に出社したことが二回あり、そのうち一回は、小野、辰已、江副の順に出社して、その三名が地下に下りていったので、私も同行し、小野と共に、江副と辰已が江副の専用車で出掛けるのを見送り、その後午前九時前後江副が戻ってきたが、江副の行き先、訪問目的は知らなかった。」旨供述しているが、これらの各公判供述は、以下に述べる理由によりいずれも信用できない。

(1) 小野の公判供述は、江副が被告人を訪問するまでの経過、当日の状況などについて具体的かつ詳細に述べているのに対し、一方では、取締役会などに出席し、リクルートの方針などを知り、それによって当然江副が被告人を訪問した目的もわかっていたはずであるのに、江副が被告人を訪問した目的は知らなかったと述べるなど、それ自体不自然である。

(2) 上野は、前記のとおり、江副に同行した者は、公邸からの帰途途中で江副と別れた旨供述しているのに対して、小野は、弁護人から、江副と辰已がいつごろ戻ってきたかを尋ねられて、両名が帰社した時期を区別することなく、始業時刻である午前九時前後に戻ってきたと供述し(一二三回・小野三七五項)、辰已も、被告人を公邸に訪問した後、上司と一緒に帰社したのではないかと思う旨供述し(五八回・辰已四〇八項)、相互に矛盾した供述をしている。

(3) 小野、柏木は、前記のとおり、江副と辰已がリクルートの地下車止めから社用車で公邸に向かったと供述しているのに対して、上野は、江副は、通常リクルートの玄関で社用車に乗り、公邸に向かった際も、見送りの人がいたかもしれないが、玄関で社用車に乗った旨供述し(一三八回・上野三三九~三四六項)、食い違った供述をしている。

(4) 上野、柏木の各公判供述は、いずれも断片的な記憶を供述しているにすぎず、時期などに関する供述はあいまいなものであり、昭和五九年三月一五日の公邸訪問の際の状況を供述しているものと断定できるようなものではない。

二 昭和六〇年三月上旬、田中、辰已が公邸に被告人を訪問した際の陳情内容

1 前記認定の「昭和六〇年度就職協定に関する松崎の発言」「臨教審における審議等」「昭和六〇年度就職協定に対するリクルートの取組」を総合すると、リクルートは、昭和六〇年度就職協定に関して、昭和六〇年一月二一日の松崎発言があった後、昭和六〇年一月二三日、取締役会を開き、昭和六〇年度の就職協定を遵守させるための方策を話し合ったが、従来採ってきた方策では決め手に欠けるとして、江副から提案されたとおり、国家的プロジェクトである臨教審で青田買いについて議論してもらい、そのことを臨教審の答申に盛り込んでもらえれば、それをてこにして就職協定の存続、遵守に関する行き詰まりを打開できるので、その答申に盛り込んでもらえるように、関係者に働きかけることにしたことが認められるが、しかし、人事課長会議に対して、前年同様の申合せをしてもらうため、働きかける方策などについて検討された形跡はうかがえない。

2 また、この点に関するリクルート関係者の捜査段階における各供述は、おおよそ次のとおりである。

(一) 江副は、平成元年四月二二日付け(乙書一〇)、同月三〇日付け(乙書一四)、同年五月六日付け(乙書一六)、同月一三日付け(乙書二四)、同月一四日付け(乙書二五)各検察官調書において、田中、辰已が、被告人に対して、官庁の青田買い防止の善処方を陳情した旨供述し、平成元年四月二七日付け検察官調書(乙書一二)において、田中、辰已が、被告人に対して、官庁が青田買いをしているので、秩序ある公務員の採用活動について関係省庁への善処方を陳情することになったと供述し、平成元年五月一一日付け検察官調書(乙書二二)において、田中、辰已が、被告人に対して、就職協定の問題、具体的には公務員の青田買い防止等について善処方を陳情したが、臨教審の答申に青田買いの防止と就職協定の存続、遵守が盛り込まれることが望ましいということは、あからさまにお願いしたつもりはない旨供述し、平成元年五月一七日付け検察官調書(乙書二六)において、田中、辰已が、被告人に対し、公務員の青田買い防止や臨教審でのこの問題の取り上げなどにつき善処方を陳情した事実がある旨供述している。

その後、江副は、平成元年五月一八日付け検察官調書(乙書二七)において、田中、辰已に対して、「前の取締役会で決まったように、藤波先生に公務員の青田買いを防止するということでお願いに行ってくれないか。」と頼み、前年の同じころ、同様の問題について被告人にお願いに行ったが、公務員の青田買いが依然として止まらなかったため、被告人にこの年もお願いをするということで、田中や辰已らに指示をしたのであり、さらに二人に対し、「臨教審の答申で、もしその問題に触れてもらえば有り難いということで、藤波先生に頼んで来てくれないか。」と指示した旨供述している。

さらに、平成元年五月一九日付け検察官調書(乙書三〇)において、取締役会で公務員の青田買いのことが話し合われ、その結果、私は、田中、辰已に指示して、被告人に会いに行かせているが、これは、被告人に再度公務員の青田買い防止等につきお願いに行かせたのであり、その際、辰已らに対し、併せて公務員の青田買い防止の問題と臨教審との関連についてもお願いするよう指示した旨供述している。

(二) 辰已は、平成元年四月一〇日付け検察官調書(甲書六七九)において、田中と共に被告人に対して、各省庁が就職協定を遵守するような通達を出すことができないかとか、会議を開いて各省庁に就職協定を遵守するように指導していただけないかとか、就職協定の問題に関し、各省庁のたがを締めるようにお願いした旨供述し、平成元年四月一六日付け検察官調書(甲書六八三)において、田中と共に被告人に対して、就職協定の歴史や現状、労働省、通産省の青田買いについて説明し、「各省庁の人事担当者の方を集めて会合を開いていただき、官庁が青田買いをしないように徹底していただけませんか。」などとお願いした旨供述し、平成元年四月一九日付け検察官調書(甲書六八八)において、田中と共に被告人に対して、官庁の青田買いの自粛をお願いした旨供述し、平成元年五月一五日付け(甲書五七八)、同月一六日付け(甲書六九四)、同月一七日付け(甲書一二三)各検察官調書において、田中と共に被告人に対して、青田買いの現状、通産省、労働省のフライングについて説明し、本年も各省庁の会議で青田買い防止を徹底していただきたいことと臨教審の方でもよろしくお願いしたいと述べ、官庁が青田買いをしないようにたがを締めていただきたいとか、臨教審の答申の中で青田買いが学歴社会の弊害の一因となっていることを盛り込んでいただきたいとお願いした旨供述している。

その後、辰已は、平成元年五月一九日付け検察官調書(甲書一二四)において、江副から、田中と共に社長室に呼ばれ、「藤波先生の力添えで昨年同様官庁の青田買いを防止していただけないかということでお願いに行ってくれないか。」とか、「この前の取締役会で決まったように、臨教審の答申の中に青田買いのことを盛り込んでいただければ有り難いとお願いしてくれないか。」などと指示され、被告人を公邸に訪問し、田中が、被告人に対して、昭和五九年四月下旬及び同年五月下旬の通産省や労働省が青田買いをしたとの新聞記事を見せながら、官庁の青田買い防止のことについて、「青田買いの現状はとてもひどいもので昨年も通産省や労働省がフライングをしています。就職秩序を守らせることが、学生や産業界のためになることであり、産業界は官庁が青田買いをしていることが混乱の原因になっていると言っておりますので、本年も各省庁の会議で青田買いの防止を徹底していただけないでしょうか。」とお願いし、臨教審のことについて、「臨教審で青田買いのことをご審議いただいていますが、有り難うございます。企業が学生を採用する際に有名校に在学しているということだけで採用する指定校制度をとったり、大学での本人の学業成績を参考にしないで青田買いをすることが、大学教育に影を落とし、教育に対する価値観を歪めている原因の一つになっているではないかと思うのです。このような観点から指定校制の問題と青田買いの問題を取り上げて、答申に盛り込んでいただければ有り難いのですが。」などと説明した旨供述している。

(三) 田中は、平成元年五月一三日付け検察官調書(甲書六三五)において、被告人に対して、前の年と同じように青田買いをしないことを各省の人事担当の方にお話していただきたいということと、青田買いと就職協定の問題は大学生の学業専念という立場からも重要なことなので、臨教審で取り上げていただきたいということをお話した旨供述し、その後、平成元年五月一九日付け検察官調書(甲書一三一)において、江副から、辰已と共に呼ばれ、「今年も官庁の青田買いについては、藤波先生にお願いしたいと思いますので、行ってきてくれませんか。臨教審で青田買いを取り上げてもらうことができないかどうかもお願いしてきてくれませんか。」という意味の指示を受け、被告人を公邸に訪問し、被告人に対して、青田買いの関係については、「就職協定が守られず、就職秩序が混乱しています。産業界から官庁の青田買いが混乱の種と言われています。私どもが申し上げることではないかも知れませんが、昨年と同じようにお願いします。」という意味のことを話したが、各省庁の人事担当者に青田買いの自粛を徹底するよう申合せをさせてほしいということまでは申し上げるまでもなく、十分ご承知いただけるものと思ったし、藤波先生という立派な方にそんな生々しい話もできないので、この程度の話に留め、臨教審の関係については、それまでどのように話せばいいのか考えたが、臨教審では教育の基本問題を検討すると理解していたので、青田買い問題などをどのようにドッキングさせるのがよいかということについての考えが今一つまとまらなかったが、「臨教審では学歴社会の是正についてもご検討いただいていると承っております。先生に申し上げるのもはばかられるのでございますが、企業が大学生を採用する際に、有名大学に在学しているということだけで採用する指定校制度をとったり、大学での本人の学業成績を資料にしないで青田買いに出ることが、大学教育に影を落とし、国民の教育観を歪めているように思うのです。このような観点から青田買いの問題などを臨教審でお取り上げいただければと思います。」と説明した旨供述している。

これらの各供述によれば、江副から、前年と同様に官庁の青田買い防止と臨教審で青田買い防止の問題を取り上げてもらうことについて被告人に陳情してくるよう指示され、田中、辰已が被告人を公邸に訪問し、そのような陳情をしてきたことになっている。しかし、前年度と同様に官庁の青田買い防止を陳情するというのであれば、前年度はその結果、昭和五九年三月二八日の人事課長会議の申合せがされ、それが非常に有り難かったというのであるから、江副の田中、辰已に対する指示も、単に官庁の青田買い防止を陳情してくるようにという指示ではなく、より具体的に、人事課長会議で、昨年同様の申合せをしてもらうようにお願いしてくるように指示するのが自然であると考えられるところ、三者の供述中には、そのような指示内容が一切出てこないし、また、田中の平成元年五月一九日付け検察官調書(甲書一三一)によれば、被告人に対する陳情は、就職協定が守られないのは、官庁の青田買いが混乱の種であることを説明した上、昨年と同じようにお願いしますというのであって、各省庁の人事担当者に青田買いの自粛を徹底するよう申合せをさせてほしいとまでは言っていないというものである。なお、辰已の供述中には、田中は、本年も各省庁の会議で青田買いの防止を徹底していただけないでしょうかと陳情した旨の供述があるが、陳情した当の本人である田中が、前述のとおり、理由を述べた上、そのような陳情をしていないと断言していること及び前記認定のリクルート社内での就職協定に関する検討状況に照らし、辰已のこの部分の供述は到底信用し難い。

3 そこで、右1、2に認定した関係各事実を総合して、昭和六〇年三月上旬、田中、辰已が被告人を公邸に訪問した際、どのような陳情をしたかについて検討する。

昭和六〇年度就職協定の存続、遵守に向けてのリクルートの取組姿勢は、青田買い問題を臨教審で取り上げてもらうことを重視していたのであり、人事課長会議の申合せをさせるために対応策等を検討した形跡はない。また、田中、辰已による被告人に対する陳情内容も、官庁による青田買い防止に関する陳情部分については、「官庁による青田買いが混乱の種なので、昨年と同じようにお願いします。」というもので、抽象的な表現に終始し、それ以上具体的な陳情がされていない。一方、臨教審に関する陳情部分については、取調べが進むに従って具体化され、「臨教審では学歴社会の是正についてもご検討いただいていると承っております。企業が大学生を採用する際に、有名大学に在学しているということだけで採用する指定校制度をとったり、大学での本人の学業成績を資料にしないで青田買いに出ることが、大学教育に影を落とし、国民の教育観を歪めているように思うのです。このような観点から青田買いの問題などを臨教審でお取り上げいただければと思います。」旨最終的に田中は供述している。しかも、官庁による青田買い防止に関する陳情部分に関しては、一致していない辰已、田中の供述が、この臨教審に関する陳情部分に関しては、ほぼ一致している。また、田中が、被告人に対する臨教審に関する陳情について、その説明方法に悩んだこと、その説明が思うようにならなかったこと、説明を終えて大役を果たしたという安堵感があったことなどについて述べているところは、迫真的であり、臨教審に関する陳情が重責であったことを物語っている。

さらに、後記認定のとおり、昭和六〇年六月、辰已、小野が被告人を首相官邸に訪問して、小切手を供与した際の辰已と被告人とのやりとりは、辰已が、「その節は有り難うございました。」と言った上、「臨教審ではご苦労様です。江副からですが、お納めください。」などと言って小切手を手渡したというもので、官庁の青田買い防止の善処方に対する謝礼といった趣旨を何ら明示しているものではない上、その話の流れに、辰已、小野が首相官邸を訪問した時期が臨教審第一次答申が出された直後であったことも併せ考慮すると、その臨教審答申で青田買い問題が取り上げられたことについてお礼を言っているとも考えられる。

以上によれば、昭和六〇年三月上旬の田中、辰已による公邸訪問の際の陳情内容は、臨教審で青田買い問題を取り上げてもらうことにその重点があったのであり、官庁による青田買い防止の善処方について話があったとしても、それは、臨教審において青田買いの問題を取り上げてもらうことの陳情の前提としてか、あるいは、それに付随して話が出たものと推認される。したがって、官庁の青田買い防止の善処方を請託したことについては合理的な疑いが残る。

第四章  わいろ性の認識の有無

当裁判所は、右に述べたとおり、本件各請託の事実については、これらがあったことについて合理的な疑いが残ると判断するものであるが、念のため、以下においてわいろ性の認識の有無についても判断を示すこととする。

本件においては、供与された小切手、譲渡されたコスモス株がわいろであると被告人が認識していたことを直接示す証拠は存在しない。したがって、被告人が、それらの小切手、コスモス株をわいろであると認識していたかどうかについては、被告人に対して小切手が供与されるに至った経緯、小切手供与時の状況、被告人に対してコスモス株が譲渡されるに至った経緯、コスモス株譲渡時の状況、コスモス株の売却益の使途、江副らが被告人に対して請託した趣旨、状況等を総合して判断せざるを得ないが、以下に判断を示すとおり、それらの事情を総合考慮しても、供与された小切手、譲渡されたコスモス株がわいろであると被告人が認識していたことにつき合理的な疑いが残る。

第一節  被告人とリクルートとの関係

第一  リクルートの行事等への被告人の出席

関係各証拠(一四六回・藤波二〇~二六、八五~八七、一七一~一七四、一九〇~二〇八、二九六~三〇一項、五六回・辰已二六三~二六五項、一〇三回・江副二八九~三〇〇項、一二二回・小野六一~八六項、一二三回・小野四三八~四四六項、一二六回・小野二〇九~二二六項、一三八回・柏木六五~八六、二七二~二七七項、甲書一三一、六三〇・田中、甲書一八五~一八七、弁書一一四、甲物一三一等)によれば、次の各事実が認められる。

(一) 労働大臣の職にあった昭和五五年一月、リクルートが東京商工会議所において開催した「第三六回リクルート新春シンポジウム」に出席し、「八〇年代の雇用問題を考える」と題する講演を行った。

(二) 労働大臣の職にあった昭和五五年六月、リクルートが東京プリンスホテルにおいて開催した「創業二〇周年記念謝恩の集い」に出席して祝辞を述べた。

(三) リクルートの役員会に招かれて講演を行った。

(四) 官房長官の職にあった昭和五九年三月二一日、リクルートがホテルニューオークラにおいて開催した社名変更披露のための謝恩の集いに出席した。

(五) 官房長官の職にあった昭和五九年四月、江副らと共にスリーハンドレッドクラブにおいてゴルフをした。

(六) 官房長官の職にあった昭和六〇年四月二五日、リクルートが開催した「創業二五周年謝恩の集い」に主賓として招かれ出席した。

第二  リクルートによる被告人への資金援助の状況

一 藤波事務所の資金管理状況

関係各証拠(一四六回・藤波四一、四二項、一四九回・藤波一一〇~一一四項、一〇二回・徳田二四六~二五三項、甲書八一〇、八一一、八七三・徳田、甲書一〇〇九~一〇一一・水谷、甲書五八四~五八六等)によると、以下の事実が認められる。

藤波事務所では、被告人の私設秘書であった水谷太が、昭和五七年ころから、同じく被告人の秘書であり藤波事務所の統括的立場にいた徳田英治の下で、事務所の資金管理を任されるようになった。水谷は、被告人主催のパーティーで資金管理等を手伝ってもらった東京銀行日比谷支店に、昭和五七年九月三〇日、水谷太名義の普通預金口座(以下単に「水谷太普通預金口座」という。)を開設し、これを藤波事務所の資金管理口座とし、それ以降、藤波事務所の資金は、主に、水谷太普通預金口座を利用するとともに事務所内の金庫に現金を保管することにより管理されるようになった。

その後、水谷は、右銀行の勧めで同銀行同支店に水谷太名義で定期預金口座(以下単に「水谷太定期預金口座」という。)を昭和五七年一一月一〇日開設し、先の普通預金口座に加えて藤波事務所の資金管理口座として利用していた。

しかし、自分が使用していたカードの支払いの引き落とし口座として水谷太普通預金口座を使用していたために、事務所の経費と個人的な出費とが一部混同してしまうので、これを避けるために、昭和六一年三月一四日、水谷太普通預金口座を解約して、同支店にあらたに徳田英治名義の普通預金口座(以下単に「徳田英治普通預金口座」という。)を開設し、これに先の水谷太普通預金口座に入金していた事務所資金を全て移し、それ以降、徳田英治普通預金口座を事務所の資金管理口座としていた。

その後約二年間、徳田英治普通預金口座が藤波事務所の資金管理口座とされていたところ、水谷は、徳田から、徳田英治普通預金口座を自分が個人的に使用するカードの支払いのための引き落とし口座として使用したい旨の申し出があったので、徳田英治普通預金口座を徳田の個人口座とすることにし、昭和六三年三月一日、別途、同支店に架空人である「徳田太」名義で普通預金口座(以下単に「徳田太普通預金口座」という。)を開設し、これに先の徳田英治普通預金口座に入金していた事務所資金を全て移し、それ以降は、徳田太普通預金口座を藤波事務所の資金管理口座としていた。

藤波事務所では、政治献金があった際の領収証の作成はもっぱら水谷の仕事であったが、自治省に提出する報告書で献金先が公にならないようにするため、一〇〇万円を超える献金の大部分は、一〇〇万円以下に分散して受け入れて、領収証を発行する取扱いをしていた。

二 パーティー券購入、秘書の給与負担及び後援会加入等による資金援助

1 被告人が主催したパーティーのパーティー券の購入、被告人の秘書の給与負担による資金援助

関係各証拠(九八回・徳田四八一~五〇二項、一〇三回・江副二七一~二八四、三一六~三一八、三二四~三三七項、一二二回・小野一〇五~一五一項、甲書一八九・横山、甲書八七四・徳田、甲書一〇一〇・水谷、甲書一九〇、弁物八一等)によると、次の各事実が認められる。

(一) 被告人は、昭和五七年一一月二日、自己の著書である「議事堂の朝」の出版記念パーティーを開催したが、その際リクルートは右パーティーのパーティー券二〇〇枚(代金合計四〇〇万円)を購入した。右パーティー券の購入代金四〇〇万円は、昭和五七年一〇月一八日、三和銀行新橋支店の「藤波孝夫出版記念会事務局長水谷太」名義の普通預金口座に振り込まれた。

(二) リクルートは、昭和五八年一月から、三重県伊勢市の藤波事務所で秘書をしていた横山をリクルートの従業員扱いとし、月々約一七万円を横山名義の銀行預金口座に送金し、その後、昭和六一年五月から、いわゆるリクルート事件が取り沙汰された平成元年一月までの間、横山をリクルートの関連会社である株式会社大西企画(昭和六一年一一月株式会社オー・エヌ・ケーに商号変更)の取締役扱いとし、月々約二〇万円を横山名義の銀行預金口座に送金していた。

しかし、横山が、リクルートあるいはその関連会社において従業員あるいは役員として仕事をした事実はなく、リクルートから横山への右送金は、実質上、被告人の秘書一人分の給与をリクルートが負担するというものであり、リクルートの被告人に対する資金援助の一環であった。この給与負担はリクルートから藤波事務所側へ申出があって開始されたものであるが、リクルートは同様の方法による資金援助を他の政治家に対しても行っており、リクルートではこのような架空職員を「非常勤S職」と称していた。

2 江副あるいはリクルートによる被告人の後援会入会等による資金援助

関係各証拠(一四六回・藤波四三~四九、二〇九~二一八項、一〇二回・徳田六三四~六四一項、一〇三回・江副三三八~三四四項、一一七回・江副二〇〇~二一一項、甲書八七四・徳田四項、甲書一〇〇八、一〇一〇・水谷、甲書一八八、弁物八〇)によると、次の各事実が認められる。

(一) 江副は、牛尾治朗を中心として日本青年会議所のOBである若手財界人によって被告人を支援するために結成された「さざ波会」に、昭和五九年三月、入会し、年会費四八万円を支払っていた。

(二) リクルートは、昭和五九年春に創設された被告人の政治資金規制法による届出団体である「新生会」に、同年五月、入会し、年会費一〇〇万円を支払っていた。

3 右のとおり、リクルートは、昭和五七年一一月、被告人の出版記念パーティーのパーティー券を購入したほか、昭和五八年ころから、被告人の秘書の給与を負担したり、後援会に入会するなどして被告人の政治活動に対して資金援助を行っていた。

江副は、公判において、このような被告人への資金援助、「さざ波会」へ入会した経緯などについて、日本青年会議所の会頭をしていた牛尾治朗から、昭和五七年ころ、被告人を応援してほしい旨数度にわたり要請され、それ以降、積極的に被告人を支援していく気持ちを持つようになって、継続的な政治献金をすることになり、「さざ波会」にも牛尾から勧められて入会した旨供述している(一〇三回・江副三三九~三四三項、一〇九回・江副三三~五五項)。

被告人も、公判において、日本青年会議所の現役会員時に衆議院議員に当選した経緯があり、会頭を務めた牛尾と懇意になって、以来応援をしてもらうようになり、また、昭和五七年から五九年にかけて、中曽根内閣の官房副長官、官房長官などの役職を歴任するにつれて、その後援態勢を整える努力をしてくれる人々も増え、後援会の拡充を図ってくれ、そのような会員拡充のなかで江副にも「さざ波会」に入会してもらったと理解している旨供述している(一四六回・藤波四三~四九、二〇九項)。

三 小切手供与による政治献金の状況

関係各証拠(六三回・小野塚、一〇二回・徳田、一一九回・小野、甲書八七三・徳田、甲書一〇〇九、一〇一〇、一〇一二・水谷、甲書一九一、甲書五八四~五八六、弁書六〇、六一、一〇九、弁物四六~五〇、七八等)によると、次の各事実が認められる。

1 藤波事務所の資金管理口座であった東京銀行日比谷支店の各銀行口座への入金状況

(一) 水谷太定期預金口座

(1) 昭和五九年八月二三日合計五〇〇万円入金

ア 小切手(金額二〇〇万円、昭和五九年八月一〇日リクルート振出し)一通

イ 小切手(金額三〇〇万円、昭和五九年八月一〇日リクルート情報出版振出し)一通

(2) 昭和五九年一二月二一日合計五〇〇万円入金

ア 小切手(金額一〇〇万円、昭和五九年一二月一九日リクルート振出し)三通

イ 小切手(金額一〇〇万円、昭和五九年一二月一九日リクルート情報出版振出し)二通

(3) 昭和六〇年六月二八日合計五〇〇万円入金

小切手(金額一〇〇万円、昭和六〇年六月二六日リクルート振出し)五通

(二) 水谷太普通預金口座

昭和六〇年一二月六日合計五〇〇万円入金

小切手(金額一〇〇万円、昭和六〇年一二月五日リクルート情報出版振出し)五通

(三) 徳田英治普通預金口座

(1) 昭和六一年六月一一日合計一〇〇〇万円入金

小切手(金額一〇〇万円、昭和六一年六月九日リクルート振出し)一〇通

(2) 昭和六二年七月一七日合計三〇〇万円入金

小切手(金額一〇〇万円、昭和六二年七月一六日リクルート振出し)三通

(3) 昭和六二年一二月四日合計五〇〇万円入金

小切手(金額一〇〇万円、昭和六二年一二月三日リクルート振出し)五通

(4) 昭和六二年一二月二八日合計五〇〇万円入金

小切手(金額一〇〇万円、昭和六二年一二月二六日リクルート振出し)五通

(四) 徳田太普通預金口座

昭和六三年六月二三日合計一八〇〇万円入金

ア 小切手(金額三〇〇万円、昭和六三年六月二二日リクルートコスモス振出し)一通

イ 小切手(金額一五〇〇万円、昭和六三年六月一七日江副振出し)一通

2 昭和五九年八月以前の政治献金の事実

リクルートからの小切手による政治献金は、前記の各時期における小切手供与の事実に加え、本件審理の過程で、昭和五八年一一月二九日、三菱銀行麹町支店「藤波事務所TBR分室分室長水谷太」名義の普通預金口座(昭和五七年三月一九日に開設)に、リクルート振出し、金額五〇〇万円の小切手による入金がされていることが明らかになった(弁書六〇、六一、一〇九、弁物七八)。

3 藤波事務所における政治献金の処理方法等

藤波事務所では、リクルートからの献金について、他の政治献金と同様に、その額が一〇〇万円を超える場合は、献金先が公にならないように領収証を一〇〇万円以下に分割した上、発行名義を複数の被告人の政治団体名義にして受け入れていた。このことは、徳田の捜査段階における供述、公判供述のほか、昭和六〇年六月の被告人に対する小切手供与に対して、藤波事務所から、それぞれ被告人の政治団体である「春秋研究会」、「二十一世紀研究会」、「新政治経済研究会」、「東海春秋研究会」、「関西春秋研究会」の発行名義で、金額各一〇〇万円、あて先「株式会社リクルート」とする領収証が交付されていることからもうかがえる。

一方、リクルートにおいても、被告人への政治献金について、あらかじめそのあて先を複数の被告人の政治団体に分散して支出するような処理をしていたことは、小野の公判供述、リクルートの振替伝票等からうかがえるところである。

そして、このような処理方法は、右の昭和五八年一一月二九日入金の五〇〇万円の政治献金についてもとられている。すなわち、藤波事務所がいずれも昭和五八年一一月二八日付け、金額一〇〇万円、あて先「日本リクルートセンター」として発行した

ア 「関西春秋研究会」発行名義(弁物四六)

イ 「二十一世紀研究会」発行名義(弁物四七)

ウ 「春秋研究会」発行名義(弁物四八)

エ 「新政治経済研究会」発行名義(弁物四九)

オ 「東京藤波会」発行名義(弁物五〇)

の各領収証が存在している。

第二節  本件各小切手供与のわいろ性に関する認識の有無

第一款 本件各小切手の供与状況

第一  昭和六〇年六月における小切手供与の状況

検察官は、昭和六〇年六月にリクルートから被告人に対して供与された小切手は、被告人自身が首相官邸に訪れた辰已、小野から受け取ったと主張しており、その事実の有無は、被告人が、当該小切手を請託の謝礼と認識していたか否かを認定する上で重要であるので、以下において、その事実の有無について検討する。

一 この事実を裏付ける直接証拠は、辰已の捜査段階における供述と公判供述(以下両者を合わせて単に「辰已供述」という。)であるが、他方、辰已に同行したとされる小野は、公判において、辰已供述と異なる供述をしている。そこで、以下において、辰已供述及びこれと異なる小野の供述の信用性について検討する。

1 辰已供述の信用性

(一) 辰已の捜査段階における供述の概要

辰已の昭和六〇年六月の小切手供与に関する捜査段階における供述は、おおよそ以下のとおりである(甲書一二九)。

辰已は、まず、当該小切手を被告人に届けることになった経緯について、「臨教審の第一次答申の出たころの昭和六〇年六月下旬ころであったと記憶しています。」「江副は、私と小野に、『これを持って藤波先生の所に行ってくれないか。臨教審のことでいろいろご苦労されているのでよろしく言ってくれ。』などと言って、私に小切手が入っていると思われる封筒を渡しました。なお、その際江副は、『小切手で五〇〇万円入っている。』と言ったと記憶しております。」「私は藤波さんに小切手を差上げる前、封筒の中身を確かめており、確か一〇〇万円の小切手が五枚入っていたと記憶しています。」と供述し、次に、首相官邸を訪ねた際の状況について、江副から指示を受けた直後ころ、「小野が事前に藤波さんの秘書の方に連絡をして、藤波さんが首相官邸にいらっしゃることを確認して、首相官邸を訪ねました。私と小野は、リクルートの社用車で首相官邸に行ったと記憶しており、首相官邸を訪ねた時間は午後であったと思います。首相官邸に入る前、警備の人の詰め所のような所があり、私達は、警備の人にリクルートの者であることを名のり、藤波さんには連絡済みであることを伝えた上、中に入れてもらいました。」「私は、首相官邸に行くのは初めてでしたが、小野は、これまで何回か首相官邸に来たことがあるようで、詰め所のような所を通った後、勝手知ったる他人の家というか、すたすたと歩いていました。私と小野は、首相官邸の中に入り、階段を上って確か二階であったと思いますが、秘書官室に行き」「秘書の方が私と小野を同じ二階にあった応接室のような部屋に案内してくれました。」「藤波さんは応接室にはおられず、私と小野はその部屋でしばらく待っておりました。なお、その部屋には、観葉植物のようなものが四つか五つくらいあったと記憶しています。」旨供述し、さらに、被告人との小切手授受の具体的状況について、「私と小野がその部屋で待っていますと、藤波さんがその部屋に入ってこられ、私達と向かい合うようにソファーに座られました。」「私は、藤波さんが部屋に入ってこられた時、ソファーから立ち上がって、『その節は有り難うございました。』などと官庁の青田買いのことや臨教審のことで田中と一緒にお願いした時のお礼を言いました。そうしますと、藤波さんが手でソファーに座るようにとの仕種をしてくれましたので、またソファーに座りました。そして、私は、金額合計五〇〇万の小切手の入っている白封筒を背広の内ポケットに入れておりましたので、その白封筒を背広の内ポケットから取り出し、藤波さんに、『臨教審ではご苦労様です。江副からですがお納めください。』などと言って、テーブルの上に差し出しました。」「藤波さんは、恐縮されたような感じで、『江副さんによろしく。』などと言って、私が差し出した小切手を受け取られたのでした。」「藤波さんに小切手を渡しただけですぐ帰るわけにはいかないと思い、藤波さんと何かお話しなければいけないと考えたのですが、適当な話題がなく、確か一言二言藤波さんと話をして、藤波さんと別れたことが、今でも印象に残っています。」と供述している。

(二) 辰已の公判供述の概要

辰已は、公判(五三、五六回)においても、小野と二人で一年のうちの暑い時期に首相官邸へ行き、被告人に直接小切手を手渡したこと、渡したのは一〇〇万円の小切手が五枚であったこと、被告人に小切手を手渡すときに、「江副からですが、お納め下さい。」「臨教審では御苦労様です。」と言ったかもしれないこと、その際、被告人が「江副さんによろしく。」と言ったかもしれないこと、すぐに帰るわけにも行かず、何か話さなければならないと思ったが、適当な話題が見つからずに緊張した印象があることなど、被告人に小切手を渡した際の状況に関しては、前記捜査段階における供述とほぼ同様の供述をする一方で、被告人を訪問した時期についてははっきり記憶にない旨供述し、それが昭和六〇年六月のことであったかどうかについて明言していない。

(三) 辰已供述の信用性の検討

(1) 小切手供与の具体的状況に関する供述部分についての信用性

前記辰已供述のうち、小切手供与の時期に関する部分を除いた供述の信用性について、まず、検討する。

〈1〉辰已が供述する被告人に直接小切手を渡したとの事実は、辰已とともにそれに関与したとされる小野、被告人が、ともに捜査段階においては、全く供述していない事柄であって、辰已が供述しない限り、およそ検察官が知り得るはずのない事実である、〈2〉その内容も、小切手を被告人に渡した場での被告人とのやり取り、同行した小野の首相官邸内での態度、被告人と相対した際の自らの心理状況など、実際に体験した者でなければおよそ語りえない事柄が具体的かつ詳細に、しかも迫真性を持って供述されているものである、〈3〉辰已は、被告人に五〇〇万円の小切手を直接渡したこと自体については、捜査段階から公判にいたるまで一貫してこれを認めている上、捜査段階においては、いわゆる政界ルートの取調べが開始されて間もなくの平成元年四月中旬から五月下旬までの間の取調べの中で、小野と二人で首相官邸を訪ねて被告人に対して一〇〇万円の小切手五枚を手渡した旨を一貫して供述し(平成元年四月一六日付け検察官調書・甲書六八三、同月一九日付け・甲書六八八、同月二〇日付け・甲書六八九、同年五月一五日付け・甲書五七八、同月一六日付け・甲書六九四、同月二一日付け・甲書一二九)、しかも、平成元年五月二一日付けの他の検察官調書(甲書六九六)においては、再度検察官から当該小切手供与の状況について確認をされても、なおこれを肯定する旨供述している、〈4〉官房長官を首相官邸に訪ねるということ自体が民間人である辰已にとっては特異な経験であり、しかも、辰已は、首相官邸に行ったのは一回だけであると供述しているのであるから、当該小切手供与の状況を他の機会と混同することはおよそ考えられない、〈5〉辰已は、捜査段階、公判で自ら首相官邸の間取等について図面を作成しているところ、それは必ずしも客観的状況に合致していないが、これも、むしろ、辰已が複数回にわたって首相官邸を訪ねたことがないからであって、辰已自身が供述しているように、首相官邸には一回しか訪ねたことがなく、そのために多少あいまいな記憶しか残っていなかったからであると考えるのが合理的である、〈6〉本件捜査当時及び公判での供述時の辰已の立場からすると、被告人に不利益な事実を虚構してまで供述しなければならない事情をうかがうことはできない上、被告人に五〇〇万円の小切手を直接渡したとの公判供述は、江副や当該事実を否定している被告人の面前における供述である、以上のことからすると、辰已の捜査段階における供述及び小野と二人で首相官邸において被告人に小切手を渡したことがあるとの辰已の公判供述は、いずれも信用性の極めて高いものということができる。

(2) 小切手供与の時期の点に関する供述部分についての信用性

辰已は、捜査段階においては、一貫して、当該小切手供与の時期を昭和六〇年六月と特定して供述し(甲書六八三、六八八、六八九、五七八、六九四、一二九、六九六)、しかも、当該小切手供与の状況を、昭和六〇年に生起した事象との関連で供述していること、公判において、取調べ状況について、小切手五枚の発行時期を検察官から聞いて、当該小切手供与の時期が昭和六〇年だと納得したと供述していることなどからすると、辰已の捜査段階における供述は、小切手供与の時期の点についても、信用性が高いというべきである。

これに対して、辰已は、公判において、首相官邸において被告人に小切手を渡した時期について、年度ははっきりしない旨供述している。しかし、この公判供述は、〈1〉辰已は、公判において、被告人に渡した小切手は一〇〇万円の小切手五枚であったこと、気候的には暑い時期であったこと、被告人が官房長官であった時期であったことは間違いないこと、小切手を被告人に渡した際に「臨教審ではご苦労様です。」というようなことを言ったかもしれないことなど、あいまいながらも当該小切手供与に関する具体的な状況について供述しているところ、これらの供述に、被告人が内閣官房長官であったのが昭和五八年一二月から昭和六〇年一二月までであるから、その期間における「暑い時期」で被告人がリクルートから小切手の供与を受けた時期は、昭和五九年八月か昭和六〇年六月のどちらかであること、そして、昭和五九年八月に被告人側に供与された小切手は二〇〇万円一枚と三〇〇万円一枚で、昭和六〇年六月に供与されたのは一〇〇万円の小切手五枚であること、臨教審第一次答申がなされたのが昭和六〇年六月二六日であることなどの客観的事実を照らし合せて考えると、辰已が小野と共に被告人に対して直接小切手を渡した時期は昭和六〇年六月であると推認されること、〈2〉辰已の公判供述には、「伝票等がそういうふうになっておるとすればそのころだったと思う」、「取調べの段階で小切手を持って行ったのは昭和六〇年だというふうになったので、それが真実であろうと思っている」旨、当該小切手供与が昭和六〇年六月であったことを肯定するかのごとき供述も散見されること(五三回・辰已一六七~一九〇項、五六回・辰已四八五、四八六、六〇六~六一八、六八二~六八八、六九七~七二三項)、〈3〉辰已は、公判において、被告人に小切手を渡した時期についてあいまいな供述をしながら、一方では、昭和五九年一二月ころに野党議員に現金を交付した事実については、時期についても明確に供述していることなどからすると、辰已は、被告人に小切手を渡した時期あるいは時期を特定するに資する事実に関しては、ことさら明確な供述を避ける態度に終始していることがうかがわれるのであり、このような供述態度は、何らかの意図があってされているのではないかとの疑いも否定できないことなどからすると、信用できない。

2 小野供述の信用性

小野は、公判において、辰已と共に首相官邸に小切手を持って行ったことは二回ほどあると供述し、それは昭和五九年の八月と一二月のことであり、小切手を渡した場所は首相官邸の二階にある秘書がいる場所と官房長官室との間の応接スペースで、渡した相手は二回とも徳田で、徳田以外の者に対して小切手を渡したことはないが、昭和五九年八月の小切手供与の際には、官房長官の執務室で被告人にあいさつしたことがあった旨供述した上、昭和六〇年六月の小切手供与に関しては、自分一人で首相官邸を訪ねて徳田に小切手を渡したのであり、その当時、辰已はリクルート社内の人事の問題をめぐって江副と対立していて、実質的に社長室長としての活動をしていなかったので、その時期に辰已と共に行動をした覚えはない旨供述している(一一九回・小野六〇二~六六四、一二六回・小野一二一~一四六項)。

しかし、小野のこの供述は、

(一) 小野が供述するように、昭和六〇年六月ころ、辰已と江副との間に確執があり、辰已が社長室長として活動していなかったというのであれば、当の当事者である辰已自身が、そのことを公判で供述し、その時期に、江副の指示で、被告人に小切手を渡しに行く状況にはなかった旨供述してもよいはずであるのに、辰已は、公判において、そのことについて一切供述していないこと、

(二) 小野は、小切手供与に関する捜査段階における供述について、一一九回公判では、山本検事の取調べで、昭和五九年八月に辰已と共に首相官邸を訪ねたのではないかと追及を受けたが、当時山本検事の取調べに対して反発を感じていたので、自分としてはその時期に辰已と共に首相官邸を訪ねた記憶があったのに、あえてそういう事実はない、その時期には、TBRビルの藤波事務所を一人で訪ねたと嘘を述べたと供述していたのを、一二六回公判では、山本検事から追及を受けていたのが昭和五九年八月の小切手供与に関してであると述べていたのは間違いで、山本検事からは、昭和六〇年の夏に辰已と共に首相官邸に行ったのではないかと追及を受けた旨供述を訂正しているが、しかし、小野は、一方では、一二四回公判において、捜査段階の供述調書(甲書一七五)中に昭和六〇年六月の小切手供与については記載がない理由を弁護人から問われて、一旦は「昭和六〇年のその夏は、お尋ねがなかったんじゃないかと思います。」(一二四回・小野六五八~六六〇項)と答え、捜査段階において、昭和六〇年六月の小切手供与について、山本検事から追及がなかったかのような供述をした後、一二五回公判において、同じく弁護人の尋問に対して、昭和六〇年六月の小切手供与について辰已が一緒に行ったと言っていると追及を受けたと供述するに至っており(一二五回・小野一~三六項)、そのように供述が変遷するのは不自然である上、訂正後の供述どおり、山本検事から、昭和六〇年六月の小切手供与について、辰已と共に首相官邸を訪ねたのではないかと追及され、反発を感じて、嘘の供述をしたとすると、昭和五九年八月の小切手供与についてあえて嘘を述べる理由がないと考えられること、

(三) 小野供述によれば、小野は、捜査段階において、昭和五九年八月における小切手の供与場所に加え、昭和五九年一二月の小切手供与の場所についても虚偽の供述をしたことになるが、他方、昭和六〇年一二月の供与場所については記憶のとおり供述したことになるのであって、一方では記憶に反して嘘を言い、他方では記憶にあるとおりの供述をしたことについて、なぜそのような供述をしたのか理由も明らかにされておらず、その供述自体矛盾に満ちたものであること、

(四) 山本検事は、公判において、昭和六〇年六月の小切手供与に関して、平成元年五月二〇日過ぎに、小野の取調べを行った際、小野に明確な記憶がなかったので、辰已の「昭和六〇年六月小野と共に首相官邸で被告人に小切手を供与した。」との供述内容を告げたところ、「辰已と共に首相官邸に行ったことはあるが、被告人に小切手を渡したときかどうかはっきりしない。辰已が被告人に小切手を渡した可能性はある。」旨述べたので、平成元年五月二二日ころ、小野の右供述内容を録取した調書を作成し、署名を求めたが、小野は署名を拒否した旨供述しているところ(一三一回・山本八九~九七項、一三四回・山本三六二~三七七項、四〇七~四一九、五五七~五六八項)、山本検事のその供述に沿う小野の署名拒否調書(甲書九六六)が存在していること、

(五) 小野は、自らが関与した昭和五九年、昭和六〇年の四回の小切手供与のうち、昭和六〇年六月の小切手供与については、山本検事の追及を受けながら、詳細な供述を拒否しているのに、その余の三回については、供述調書の作成にも応じている。このことは、とりもなおさず、その三回の小切手供与の場所、相手等について、ありのままに供述したことを推測させること

などの各事情に、捜査段階から一貫して昭和六〇年六月首相官邸で被告人に小切手を渡したとする辰已供述には高度の信用性が認められることを照らし合わせると、信用できない。

二 その他の証拠について

徳田は、公判において、被告人が自ら小切手を受け取ることはあり得ないが、首相官邸で自分が小野から小切手を受け取ったことはあるかもしれないと供述している(九八回・徳田五六〇、五六一項、一〇二回・徳田八五~一四五項)。しかし、徳田は、一方ではリクルートからの小切手供与についての具体的状況に関する記憶はないとも供述しているほか(九八回・徳田五五七、五五八項)、捜査段階においては、献金する者の中には、被告人本人に渡したい者もいたので、被告人本人に献金を持って行く場合もあったが、その場合も近くにいる秘書が呼ばれ、被告人の側に行って客に対して「お預りします。」と言って献金を預っていた旨、また、自分が首相官邸で献金を受け取ったという記憶はない旨供述しているのであり(甲書八七五・三、四項)、これらの供述に照らすと、徳田の公判供述の信用性には疑問がある。しかも、徳田の公判供述をもってしても、昭和六〇年六月の小切手供与が首相官邸で行われた可能性は否定しきれないのである。

また、徳田は、辰已が公判において供述した際に作成した首相官邸内の小切手を供与した部屋の図面について、官房長官室の隣にある応接室の状況とは違うようであり、もっぱら秘書らが食事をするために出入りする部屋に似ている旨供述し、もしその部屋であれば、被告人が出入りすることはあり得ないと供述している(一〇二回・徳田一七一~一七三項)。しかし、前述のとおり辰已の作成した図面が必ずしも正確なものであるとはいえず、また、辰已が正確な図面を作成できなかったとしても不自然ではない上、徳田の右供述自体も、当該応接室の状況等を正確に供述しているものでもないのであるから(一〇二回・徳田一五三~一六四項)、徳田の右供述をもってしても、辰已供述の信用性に消長を来すものではない。

三 以上によれば、昭和六〇年六月リクルートから被告人に供与された一〇〇万円の小切手五枚は、首相官邸において、辰已、小野から被告人に渡されたものと認められる。

第二  昭和五九年八月、一二月、昭和六〇年一二月の各時期における小切手供与の状況

一 小野は、捜査段階において、小切手を渡すときは、秘書の徳田に会って渡しており、場所については、通常、TRBビルの藤波事務所に行って渡していたと思うが、まれに徳田がリクルート社へやって来て渡したこともあり、昭和五九年八月、一二月、六〇年一二月の各献金は、藤波事務所にいた徳田に渡したと思うが、徳田がリクルート社に来たかもしれない旨供述しているところ(甲書一七五)、一方、公判においては、昭和五九年八月、一二月の各小切手は、辰已と共に首相官邸を訪ね、徳田に渡し、昭和六〇年六月の小切手は、自分一人で首相官邸を訪ね、徳田に渡し、昭和六〇年一二月の小切手は、藤波事務所に持参し、徳田に渡した旨供述している(一一九回・小野六〇二~六六四項)。

しかし、小野の捜査段階における右供述が信用でき、公判における右供述が信用できないことは、前記認定のとおりである。

二 徳田も、捜査段階においては、小野があらかじめ徳田に電話をかけてきた上、TBRビルの藤波事務所に小切手を届けてくれたが、それらはほとんど自分が受け取ったと思う、受け取った場所については、藤波事務所以外に議員会館で受け取った記憶もあるが、首相官邸で受け取ったという記憶はない旨、さらに、昭和六一年以降の献金は水谷が受け取ることが多くなったが、それまでは自分が受け取っていた旨、小野の捜査段階における右供述と符合する供述をしている(甲書八七三、八七四、八七五・徳田)。

なお、右供述に反する、小切手を受け取る場所は、通常、TBRビルの藤波事務所であるが、首相官邸内の秘書が食事をする部屋に来てもらって受け取ったこともあったと思う旨の徳田の公判供述(一〇二回・徳田八五~九六項)は、前記認定のとおり信用できない。

三 以上によれば、昭和五九年八月、一二月、昭和六〇年一二月の各時期にリクルートから被告人に供与された各小切手は、TBRビルの藤波事務所等において、小野から徳田に渡されたものと認められる。

第二款 本件起訴にかかる各小切手供与の趣旨

第一  わいろ性に関する江副の供述等

検察官がわいろであると主張している昭和五九年八月、一二月、昭和六〇年六月、一二月の各小切手供与の趣旨に関する証拠としては、わいろ性を認めた江副の捜査段階における供述が存在する。その供述内容、供述経過は、〈1〉江副は、捜査段階の平成元年五月一〇日の取調べにおいて、昭和五九年、昭和六〇年中四回にわたり、それぞれ五〇〇万円ずつの各小切手を被告人に供与した理由については別途話をする旨供述し(甲書一〇四六)、〈2〉同月一一日、「昭和五九年八月ころに、藤波先生に対し、『半期五〇〇万、年間一〇〇〇万円の献金を、当分の間、させていただきたいと思いますが』と話をしたところ、藤波先生も了解されました。」旨供述し(乙書二三)、〈3〉同月一三日に至って、「昭和五九年八月に藤波先生に五〇〇万円を差し上げる少し前ころに、私から藤波先生に対し、『今後、盆、暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助をさせていただきます。』と話しましたところ、藤波先生は、『どうも有り難うございます。』とお礼を言われました。」旨供述するとともに、四回にわたって各小切手を供与した理由については、昭和五九年三月、昭和六〇年三月に被告人にお願いしたことの謝礼と認められるかもしれないが、自分としては盆暮れのいわゆる政治献金ということで出したものであるとしながら、「請託のお礼の要素が無かったのかと言われれば、これを否定することはできませんが、私の気持ちとしては、藤波先生は将来総理大臣までもなられる方と思っておりましたので、その政治的大成を願って、財政的なバックアップをしようという気持ちが強かったのです。これらのお金に請託のお礼の要素が少しはあったことは認めます。」と供述し(乙書二四)、〈4〉その後、同月一七日にも、昭和五九年、昭和六〇年、被告人に合計二〇〇〇万円のお金を差し上げた理由は、「一つは、政治家藤波先生に対するいわゆる政治献金的な意味、もう一つは、私どもリクルートが官房長官である藤波先生に対し、公務員の青田買い等の問題について官房長官の立場から善処方をお願いしたことのお礼の意味などでありました。」「私どもが藤波先生にお願いごとをした謝礼の意味もこのお金に含まれていたことは間違いありません。」などと請託の謝礼の趣旨が含まれていることを認めながらも、「しかしながら、私の気持ちとしましては、藤波先生は、将来総理大臣にまでもなられる立派な方と思っておりましたので、その政治的大成を願って財政的なバックアップをしようという気持ちが強かったのです。つまり、いわゆる政治献金という要素が強いお金であったということを申し上げたいのであります。」「私は、藤波先生を、将来の日本を背負って立っていかれる政治家であると考え、尊敬をしておりましたので、こういう人にいわゆる政治献金を差し上げたいという気持ちがあって出したものであることを十分ご理解願いたいと思います。」と供述している(乙書二六)、というものであって、消極的ながらわいろ請託を認める供述に終始している。

しかし、公判において、被告人に対する資金援助については、昭和五七年一一月被告人の出版記念パーティーの席であったと思うが、被告人に盆暮れに政治献金をさせていただきたいという話をし、それから定期的に被告人に対して政治献金をしてきたもので、本件起訴にかかる小切手供与もその一環であり、わいろの趣旨はなかった旨供述している。

そのほかに、前記各小切手供与の趣旨に関する証拠としては、〈1〉昭和六〇年六月の小切手供与に関し、「江副から藤波さんに小切手を差し上げるように指示されて、昭和五九年中には江副が官庁の青田買いの件を、昭和六〇年には自分と田中が官庁の青田買いや臨教審のことをお願いに行っているので、江副は、そのお礼の気持ちから藤波さんに小切手を差し上げようとしているのだと思った。江副は、昭和五九年三月、昭和六〇年四月の人事課長会議の申合せ、昭和六〇年六月の臨教審第一次答申の内容が、それぞれ藤波さんの力添えのお陰であると感謝し、その感謝の気持ちから小切手を差し上げようとしていると思った。藤波さんは官房長官になる前には文部政務次官や労働大臣を歴任され、文部行政や労働行政には詳しいので、江副は今後も何かと藤波さんに世話になりたいという気持ちもあるだろうと思った。」旨の辰已の捜査段階における供述(甲書一二九)、〈2〉「この当時藤波は、官房長官の地位にあり、自民党あるいは中曽根派の役職に就いていたわけではないので、これらは党や派閥への献金ではなく、藤波への献金である。」旨の徳田の捜査段階における供述(甲書八七五)、〈3〉「藤波事務所としてもらったものであり、党や派閥に向けてもらったものではない。」旨の徳田の公判供述(一〇一回一七六~一七九項)、〈4〉「他の議員や派閥に流れることが当初から予定されたものではなかったと思う。」旨の水谷の供述(甲書一〇一二)があるが、これらの各供述は、江副の意図を推測して述べたものか、あるいは、当該各小切手供与が選挙の応援資金などの趣旨のもとにされたものではないことを供述するものにすぎず、それ以上に当該各小切手供与のわいろ性の認定に資する供述内容を含んでいない。

第二  わいろ性に関する状況証拠の検討

右に見たように、本件起訴にかかる各小切手供与のわいろ性を直接認定し得る証拠としては、江副の右捜査段階における供述しかなく、それに加え、当該各小切手がわいろであると認識した旨の被告人の自白が存在しないことからすると、本件起訴にかかる各小切手供与にわいろ性を認めることができるかどうかは、結局、江副の捜査段階における供述の信用性と、当該各小切手をわいろと認定しうる情況証拠が存在するか否かにかかることになる。

そこで、以下において、右情況証拠中、昭和五八年一一月から昭和六三年六月までの間における、本件起訴にかかる各小切手供与を除く、リクルートから被告人に対してされた各小切手供与の趣旨について検討を加える。

一 昭和五八年一一月、リクルートから被告人に対してされた五〇〇万円の小切手供与

本件起訴にかかる四回の小切手供与のわいろ性を検討する上では、リクルートから被告人に対する定期的な政治献金がいつから始まっているのかが重要な事実であるが、この点に関して、昭和五八年一一月のリクルートから被告人に対する小切手供与の趣旨が問題となる。

1 当事者の主張

当該小切手供与の事実は、本件審理の過程で、弁護人から明らかにされたものであり、弁護人は、右事実をもとに、本件各小切手供与は、昭和五九年八月以前から既にされていたリクルートから被告人に対する定期的な政治献金の一環であると主張している。

これに対して、検察官は、藤波事務所には資金管理のための銀行口座や政治団体等の会費受入の預金口座が別途に存在していること、被告人の出版記念パーティーに際しても、パーティー券代金の振込受入口座を別途開設して、その口座に代金の振込を受けていることに加え、当該小切手が入金された三菱銀行麹町支店の「藤波事務所TBR分室分室長水谷太」名義の普通預金口座は、選挙運動の応援資金の受入口座として利用されていたことを根拠に、当該小切手供与は、被告人の選挙応援資金として臨時的にされたものであって、本件起訴にかかる昭和五九年八月から昭和六〇年一二月までの定期的な政治献金とは性質を異にすると主張している。

2 当裁判所の認定

(一) 三菱銀行麹町支店の銀行口座の性格

まず、昭和五八年一一月に小切手による入金があった三菱銀行麹町支店の当座口座の性格について検討するに、その預金通帳の記載内容(弁物七八、七九)、その他関係各証拠(一〇一回・徳田五一四~五三一項、甲書九八六、九八八、九九〇、弁書六〇、六一、甲書一一七、弁物四六~五〇等)を総合すると、以下の各事実が認められる。

(1) 総選挙間近である昭和六一年五月、被告人の政治団体の一つである「関西春秋研究会」が、被告人の支援者に対して、被告人の選挙運動のための資金援助を文書により依頼しているところ(臨時会費、一口一〇万円)、右援助金の振込先銀行口座として当該口座が指定されている。

(2) 当該口座の入金状況をみると、いずれも総選挙が行われた昭和五八年一二月の直前ころと昭和六一年七月の直前ころの入金数、額が、その他の時期に比べて多く、当該口座への入金が選挙の時期に集中していることがうかがえる。

(3) 当該口座には、特定の振込先から、以下のとおり、定期的に多額の振込入金がされている。

すなわち、「サングレイン」と記載された振込先からは、昭和五八年秋以降、毎年ほぼ同時期に、それぞれ一〇〇万円ずつの振込入金がされているほか、「ショウワカンコウカイハツ」と記載された振込先からも、昭和五八年秋以降、毎年それぞれ六〇万円から一〇〇万円の振込入金がされている。

これらの入金は、その入金時期、金額などからすると、被告人に対する定期的な政治献金であると推認できる。

以上によれば、当該口座には、検察官が指摘するように、選挙時期に合わせて選挙運動のための資金援助と考えられる多くの入金がされているが、一方では、特定の企業からの定期的な政治献金が入金されていることもうかがえるのであって、もっぱら選挙運動のための援助資金の受入口座として利用されていたと断定することはできない。

(二) 当該小切手供与の形態

当該小切手供与に関しては、〈1〉その金額が、昭和五九年八月以降に供与された各小切手の金額五〇〇万円と同額であり、藤波事務所が発行した領収証も、被告人の複数の政治団体を発行名義人とするもので、本件起訴にかかる昭和六〇年六月の小切手供与と同様の形式であること、〈2〉供与の時期が一一月の下旬で、いわゆる盆暮れの時期であり、通常政治献金がされる時期であること、〈3〉その方法も、昭和五九年以降と同じく小切手の供与によるものであり、もっぱら小切手の供与を受けた藤波事務所の事情あるいは判断によって、当該口座に入金されたと考えられ、本件起訴にかかる各小切手も時期によって、水谷太定期預金口座と水谷太普通預金口座の双方に入金されていること(リクルートから被告人への資金援助のうち、パーティー券の購入、後援会費の支払いなどは、銀行口座に直接振込送金する方法によってされている。)、〈4〉検察官が指摘している関西春秋研究会発行の被告人の選挙運動のための援助資金を募る文書(甲書九八六)のあて先は、関西春秋研究会の会員あてになっているところ、これによれば、被告人の選挙運動のための援助資金を募る場合、その依頼文書は、振込先口座を指定した上、被告人の後援会員あてに発送されていたことがうかがえるが、昭和五八年一一月当時、江副及びリクルート等が被告人の後援会に入会していなかったことなどが指摘できる。

以上によれば、当該小切手供与の形態からしても、当該小切手が、検察官が主張するように、被告人の選挙運動の援助資金として供与されたものと断定することはできず、リクルートから被告人に対して定期的にされていた政治献金の一環であるという可能性も否定できない。

(三) 定期的政治献金の開始時期に関する関係者の各供述の検討

(1) 関係者の各公判供述

江副は、「被告人への政治献金は、昭和五五年か五六年辺りから始まっており、一回一〇〇万円、盆暮れという感じであったのが、やがて秘書の給料を負担するなど金額が増えたという感じだ。献金が五〇〇万円という金額になったのは、昭和五七年の被告人の出版記念パーティー以降からである(一〇三回・江副二一~二九項、一〇五回・江副五三一~五三三項、一一六回・江副一〇~一二項等)。政治献金に加えて、秘書の給与を持たせてもらう場合、普通は政治献金が先である(一一六回・江副四一一~四一四項)。昭和五八年一一月の小切手供与は、選挙のための資金援助というわけではなく、盆暮れの政治献金の一つであったと思う(一〇五回・江副五五〇~五五二項)。」旨供述している。

小野は、「被告人への政治献金は、昭和五八年の六、七月あたりから始まっていると思う。その理由としては、秘書の給料を負担させてもらうほどであったから、間違いなく昭和五八年夏は献金している思う(一一九回・小野五二八~五四三項、一二三回・小野五四五~五四八項)。昭和五八年一一月の小切手供与は、選挙資金ではなく、暮れの政治献金を選挙に合わせて少し早目に出したものであり、他の政治家と同様に前倒しで出した記憶がある(一二三回・小野五五七~五六四項、一二五回・小野一五二~一五八項)。献金はいわゆるリクルート事件が世間で騒がれるようになる直前ごろまでされていたと思う。途中途切れることはなく、盆暮れの献金が継続していた(一二五回・小野二二六~二四二項)。」旨供述している。

徳田は、「被告人が労働大臣をしている昭和五四、五年ころ、一〇万か二〇万の献金を盆暮れにもらっていたことがある。その後、昭和五七年暮れころから二〇〇万か三〇〇万円単位の献金をもらうようになった(九八回・徳田五〇八~五二二項)。年間一〇〇〇万円、半年五〇〇万円という形の献金になったのは、昭和五七年ころからであると思う(一〇一回・徳田一四七~一四九項)。半年五〇〇万円の献金は昭和六三年まで引き続いている(一〇一回・徳田二四四~二五〇項)。昭和五八年一一月の小切手供与について、通常の盆暮れの政治献金であると思う。選挙前であっても、被告人から献金をもらいに行けという指示はなかったので、お願いに行くこともなく、通常の献金しかもらってないと思う。後に自民党の国対委員長になったり、派閥の事務総長になったりして、自分の選挙資金ではなく、派閥の資金を集めなければならないこともあったが、それも財界の人から江副に対してお願いしてもらった結果だと思っている(一〇二回・徳田六〇~六五項)。」旨供述している。

(2) 関係者の捜査段階における各供述

江副、小野、徳田は、捜査段階においては、一様に、リクルートから被告人への五〇〇万円もの多額にわたる献金は、昭和五九年八月が最初である旨、公判とは異なった供述をしている。また、被告人の秘書であった水谷も捜査段階において同様の供述をしている。

すなわち、被告人への献金に関して、江副は、「被告人に対して五〇〇万円というような多額なお金を盆暮れという形で差し上げるようになったのは、昭和五九年八月が最初である。」旨供述し(乙書二四・五丁、乙書二六・四丁)、小野は、「被告人関係の資金援助については、昭和五九年夏ころから大体盆暮れに五〇〇万円ずつお金が渡されている。」旨供述し(甲書一七五)、徳田は、「リクルートから藤波事務所が定期的に献金をいただくようになったのは、五九年からです。」と供述している(甲書八七四)。

(3) 検討

いわゆるリクルート事件の主任検察官として捜査の指揮をとり、江副を取り調べた宗像検事は、公判において、昭和五八年一一月の小切手供与の事実については、捜査当時、既に報告を受けて把握していたが、当該小切手は、そのころ行われた選挙のための資金であり、特殊な献金であったので、江副に対して質問することはなかった旨供述し(一二八回・宗像三六四~三七一項、一二九回・宗像五二~八三項、一三〇回・宗像五〇三~五一八項、一三三回・宗像六〇~七九項)、小野の取調べを担当した山本検事は、昭和五九年、六〇年、六三年の小切手に関する伝票をもらい、それらについて小野から事情を聴くように指示を受けただけであるから、それ以外のリクルート側からの献金については把握しておらず(一三一回・山本九八、九九項、一三四回・山本三四七、三四八、三五四項)、渡された伝票に関連して必要事項を聴くということであったので、その年次に限って聴くだけで、それ以外の献金については全く小野に質問していない旨供述し(一三四回・山本三五五、三五八、五二三~五二六項)、捜査段階においては、そもそも江副、小野に対して、昭和五八年一一月における小切手供与の事実の確認やその趣旨に関する取調べがされていない。

また、徳田の平成元年五月一七日付け検察官調書(甲書八七四)は、「藤波事務所とリクルート社との関係や政治献金等のことについて申し上げます。」との書き出しで始まり、昭和五七年一一月に行われた被告人の出版記念パーティーに関する事項(二項)、いわゆる非常勤S職に関係する事項(三項)、昭和五八年一二月に被告人が官房長官に就任したために昭和五九年春からリクルートが被告人の後援会に入会したこと(四項)、昭和六一年六月の一〇〇〇万円、昭和六二年七月の三〇〇万円(七項)、昭和六二年一二月の一〇〇〇万円、昭和六三年の一八〇〇万円(八項)の各献金についてそれぞれ供述がされており、その中には、検察官が昭和五八年一一月の小切手供与と同じく選挙のための資金援助であると主張している昭和六一年六月の小切手供与についても、徳田の供述が求められているにもかかわらず、昭和五八年一一月の五〇〇万円については、その事実の確認すらされていない。

さらに、藤波事務所において資金管理をしていた水谷は、平成元年五月一〇日付け検察官調書(甲書一〇〇八)において、「昭和五九年以降、江副やリクルートが被告人の後援会員になり、盆暮れにそれぞれ五〇〇万円の政治献金をもらうようになった。後援会に入会してもらう以前は、選挙のときやパーティー券の購入でお世話になっていたことはあるが、毎年の盆暮れにほぼ定期的な政治献金をもらっていたことはない。」旨供述し(三項)、同月一一日付け検察官調書(甲書一〇一〇)において、「昭和五五年ころから昭和五八年ころまでの間は、リクルート社も江副さんも後援会のメンバーではありませんでしたし、パーティーなどの時に援助してもらったことがある程度で、盆や暮れの時期に支持者の皆さんからいただいているほぼ定期的な政治献金をちょうだいしたことはありませんでした。」と供述する一方、同じ調書の中で、「昭和五八年一二月には、国政選挙が行われましたが、この選挙の際に、リクルートから献金をいただいたかどうかについてははっきり記憶がありません。」と供述した上、さらに、「リクルート社からもらった小切手を東京銀行日比谷支店以外の銀行口座に入金したことはあるか。」との問いに対して、「一つもないと思います。」と答えている。これによれば、水谷の取調べに当たって、検察官が昭和五八年一一月の小切手供与の事実を把握していなかったことがうかがえる。

ところで、宗像検事は、公判において、平成元年五月一〇日の時点で、昭和五八年一一月の小切手供与については、その詳細を把握していた旨供述した上、「五月一〇日の時点のことを基準に言いますと、藤波氏のところに流れ込む金がどういう口座に入るのか、という形の調べを、当時藤波氏の秘書等の人から話を聞いて取調べしていたんだろうというふうに思います。」と供述している(一三三回・宗像七四項)。しかし、昭和五八年一一月の小切手供与の詳細について把握していたとすれば、被告人の秘書である徳田、水谷やリクルートから被告人への資金援助の事務を担当していた小野に対して、その点に関して説明を求めるのが当然であると思われるのに、先に見たとおり、そのような取調べが一切行われていないことや、宗像検事自身、江副にその点の説明を求めなかった理由について、合理的な説明をしていないことなどに照らすと、捜査当時、検察官が昭和五八年一一月の小切手供与の事実を把握していなかったのではないかとの疑いが払拭できない。

以上に述べた検察官の捜査状況などからすると、江副ら関係者の捜査段階におけるリクルートからの政治献金開始時期に関する各供述は、到底そのまま信用することはできない。もっとも、江副ら関係者のこの点に関する各公判供述も、それぞれの供述自体があいまいであったり、献金が始まった時期や金額などの細部について必ずしも一致していない上、これらの各供述を裏付ける客観的な証拠も存在しないことから、そのまま信用することはできないが、しかし、昭和五九年八月よりも前から、リクルートから被告人に対して、定期的な政治献金がされていたとする各供述については、昭和五八年一一月の小切手供与の事実が存在し、その趣旨について、臨時的な資金援助であると認定できない以上、その信用性を否定することはできない。

(四) 以上検討したところによれば、昭和五八年一一月の小切手供与は、三菱銀行麹町支店の銀行口座の性格、当該小切手供与の形態からすると、選挙のための臨時的なものであって昭和五九年八月以降の定期的な政治献金とは異なる性質のものであると断定することはできず、むしろ、関係者の供述を考え併せると、昭和五九年八月より前から、リクルートから被告人に対して定期的にされていた政治献金の一環であるという可能性も否定しきれないというべきである。

二 昭和六一年六月から昭和六三年六月までの間、リクルートから被告人に対してされた各小切手供与

リクルートから被告人に対しては、本件起訴にかかる小切手供与以降も、数回にわたって、小切手が供与されているところ、本件起訴にかかる四回の小切手供与のわいろ性を検討する上では、本件小切手供与の趣旨とそれ以後の小切手供与の趣旨との異同が重要な事実であるので、昭和六一年以降のリクルートから被告人に対してされた各小切手供与の趣旨に関して、以下検討する。

1 関係者の各供述

(一) 昭和六一年六月の一〇〇〇万円の小切手供与

(1) リクルート側関係者の各供述

江副は、公判において、どうしてこのときが一〇〇〇万円となったのか、細かな経緯については記憶していないが、このころは、献金が年間一〇〇〇万円程度ということになっていたのではないかと思うと述べた上、当該小切手供与と選挙との関係を問われ、選挙の関係で、暮れの分を時期を早めて、盆暮れをあわせた分として一〇〇〇万円渡したということだったと思う旨供述している(一〇五回・江副五八二~五八六項)。

小野は、公判において、選挙があった年だったと思うので、選挙でいろいろ入り用だと思い、通常の献金に加えその額になっているのだと思う旨供述している(一一九回・小野六八五~六八八項)。

(2) 藤波事務所側関係者の各供述

徳田は、捜査段階において、当時被告人は、自民党の国対委員長の地位にあり、衆議院の定数是正をやり遂げ、七月にはいわゆる「死んだふり解散」によって衆参同日選挙となったので、リクルートからの一〇〇〇万円の献金は選挙用に使われていると思う旨供述したが(甲書八七四)、公判においては、五〇〇万円は従前どおりの献金で、後の五〇〇万円は選挙のための献金であると思う、持ってきたのは小野であるが、小野から被告人が国対委員長をやっていることについて何か言われた覚えはない旨供述している(九八回・徳田五五〇~五五二項、一〇一回・徳田一八〇~一九〇項)。

水谷は、捜査段階において、被告人が国対委員長をしていた時期に迎えた国政選挙の時の献金である、被告人が広範囲の議員に陣中見舞いを配らなければならない地位にあり、事務所としても金が必要な時期であった、この献金を小野から受け取ったのは自分であり、「国対委員長は大変でしょうから。」と言われたように思う旨供述している(甲書一〇一二)。

(二) 昭和六二年七月の三〇〇万円の小切手供与

(1) リクルート側関係者の供述(江副の供述)

江副は、公判において、この三〇〇万円のほかにも献金しているのではないか、グループ企業のどこかから二〇〇万円が出ていて、五〇〇万円というやりくりだったのではないかと思うが、どうして三〇〇万円なのかについてはわからない旨供述している(一〇五回・江副五八七~五九四項)。

(2) 藤波事務所側関係者の各供述

徳田は、捜査段階において、金額から考えて派閥のためのものではないかと思う、藤波事務所に対する献金は、これまで五〇〇万円だったので、この時だけ三〇〇万円というのは不自然である、多分パーティー券の代金だと思う旨供述し(甲書八七四)、公判においては、派閥のパーティーか何かの代金ではないかと思う、そのころ中曽根派が行った「日本の前途を語る会」というパーティーがあった記憶はあるが、これに関係するかどうかははっきり断言できない旨供述している(九八回・徳田五五三項、一〇一回・徳田一九一~一九七項)。

水谷は、捜査段階において、中曽根派が行った「日本の前途を語る会」というパーティーに関係した献金であり、パーティーは五月ころにあったが、リクルートが一枚三万円のパーティー券を一〇〇枚購入してくれることが決まっていたので、藤波事務所で五月ころに立替えをしていたものの清算金である、七月になって小野が小切手で持参したものであり、小野は、「中曽根さんのパーティー券の分です。遅れて申し訳ありませんでした。」という意味のことを言っていた旨供述している(甲書一〇一二)。

(三) 昭和六二年一二月四日入金の五〇〇万円の小切手供与と同月二八日入金の五〇〇万円の小切手供与

(1) リクルート側関係者の各供述

江副は、公判において、その当時、包括的に年間一〇〇〇万円程度ということは、小野も理解しており、具体的な総選挙やパーティーということについては、徳田と小野の間でやりとりがあって、自分は包括的に小野に任せていたという感じであったから、具体的なやりとりの経緯については記憶がない旨供述している(一〇五回・江副五九五~五九八項)。

小野は、公判において、当該小切手供与には自分が関与しており、通常の暮れの献金であると思う、昭和六一年、昭和六二年あたりは一〇〇〇万円くらいの献金を盆暮れにしていた記憶である旨供述している(一一九回・小野六八九~六九六項)。

(2) 藤波事務所側関係者の各供述

徳田は、捜査段階、公判を通じて、昭和六二年一一月に竹下内閣が発足し、被告人は中曽根派の事務総長に就任していたので、どちらかの五〇〇万円は派閥のための資金としてリクルートから金を出してもらったものではないかと思う旨供述している(一〇一回・徳田一九八~二一七項、甲書八七四)。

水谷は、捜査段階において、一回目は自分が、二回目は徳田が受け取っていると思う、一二月初旬小野から五〇〇万円を受け取ったのに、なお徳田にリクルートからの献金として五〇〇万円が届きおかしいと思ったこと、領収証の発行者を考えた記憶があることなどから覚えている、一二月中リクルートから一〇〇〇万円もの献金があった理由はよく分からないが、このころの出金状況からすると、何か特定の理由があった献金と考えるのが自然だと思うが、その理由は分からない、この時期は被告人が中曽根派の初代事務総長に就任した時期であり、総裁選びの直後でもあって、藤波事務所から派閥に流れた金が多かったように思う旨供述している(甲書一〇一二)。

(四) 昭和六三年六月の一八〇〇万円の小切手供与

(1) リクルート側関係者の各供述

江副は、公判において、一八〇〇万円のうち一五〇〇万円は、ある人が参議院選挙に新人で立候補するので応援して欲しいと被告人から直接リクルートで話を聞いて、政治献金をしたものだと思う、残りの三〇〇万円は、恐らく通常の盆暮れの献金分だと思う、その新人候補者の関係で一五〇〇万円を出しているので、寄付金の枠の関係がやりくりがつかなくて減額させてもらったのだと思う旨供述している(一〇五回・江副五九九~六〇七項)。

小野は、公判において、被告人がバックアップする形で立候補する新人がいて、その応援を頼まれ、通常の盆暮れの分と合わせて被告人に献金するということになった旨供述している(一一九回・小野六九七~七〇九項)。

(2) 藤波事務所側関係者の各供述

徳田は、捜査段階において、額の大きさからいって、藤波事務所に対する献金ではなく、派閥に必要な金を事務総長としての責任から受け取ったものと思う旨供述していたが(甲書八七四)、公判においては、佐藤欣子への資金援助ではないのかとの検察官の問いに対して、佐藤欣子には会ったこともないし、被告人が江副に資金援助の要請をしたということも聞いていない旨供述し、自分が集めに行ったのではないので、この一八〇〇万円については、よく分からないとも供述している(一〇一回・徳田二一八~二四三項)。

水谷は、捜査段階において、当時被告人は中曽根派の事務総長の地位にあり、この献金はその立場に関係するものであり、実質的には、平成元年夏に行われた参議院議員選挙に中曽根派推薦として立候補が予定されていた佐藤欣子に流れた金である、佐藤側から被告人へ資金援助のための口添えを依頼してきていたが、リクルートほか数社から合計三〇〇〇万円の援助がもらえることになり、その入金処理について頼まれた、その後、小野から電話があり、佐藤あての援助について藤波側で領収証を切ってもらいたいとの相談があり、承知した、一八〇〇万円はリクルート分として中曽根派事務局長に現金で届けている旨供述している(甲書一〇一二)。

被告人は、公判において、当時自分は中曽根派の事務総長をしていた時期であり、参議院選挙に際してある新人候補を応援することになり、その一環としてリクルートにお願いに行った、したがって、この時期にもらった千数百万円の趣旨は、新人候補の応援のためのものであり、派閥の口座に入ってしかるべきものであった旨供述している(一四九回・藤波二〇七~二一五項)。

2 検討

右に述べた関係者の各供述によれば、昭和六一年以降の各小切手供与については、当時の被告人の役職との関係で資金援助の必要性があったり、選挙資金としての必要性があったりするなど何らかの個別の趣旨があったこともうかがえる。しかし、それぞれの小切手供与がされた時期、金額などからすると、どの小切手もいわゆる盆暮れの献金のいずれかに見合う時期に供与されており、全体を平均してみると年間一〇〇〇万円程度の金額の小切手が昭和六一年から昭和六三年までを通じてリクルートから被告人に対して供与されていたと見ることができるのであり、定期的な政治献金がその時々の被告人側の事情によって、年間一〇〇〇万円程度の金額の枠内で、供与時期、金額などに差異を生じたと見ることも十分できる。また、右に述べた関係者の捜査段階における各供述も、右各小切手供与について独自の趣旨を述べながらも、定期的な献金の趣旨がなかったとまでは断定していないのであり、関係者の各公判供述中には、定期的な献金の趣旨が含まれていたとするものもある。

以上によれば、各小切手供与がそれぞれ独立して個別的な趣旨のもとにされていたとしても、リクルートから被告人に対して定期的にされていた政治献金の趣旨も含まれていた可能性も否定しきれないというべきである。

第三  わいろ性の有無に関する判断について

右に検討した昭和五八年一一月から昭和六三年六月までの間の、本件起訴にかかる各小切手供与を除く、リクルートから被告人に対してされた各小切手供与の趣旨からすると、本件起訴にかかる各小切手供与は、リクルートから被告人に対し、昭和五九年八月より前から開始され、昭和六〇年一二月以降も続けられていた定期的な政治献金の趣旨も含まれていた可能性も否定しきれず、しかも、江副の捜査段階における供述も右に見たとおり、消極的ながらそのわいろ性を認めているものにすぎないので、本件起訴にかかる小切手が、検察官が主張するとおりのわいろであると認めるのはちゅうちょされる。

しかし、この点に関する江副の公判供述は、定期的な資金援助の開始時期、被告人に対する申し入れ時の状況、昭和五八年一一月より前の献金の有無、その金額等について、あいまいであり、必ずしも信用できず、これをもってしては、江副の捜査段階における供述の信用性を否定できないこと、検察官が主張するように、昭和五九年八月ころ、被告人に、今後、盆暮れ合わせて一〇〇〇万円程度の資金援助をする旨申し入れたとの江副の捜査段階における供述に符合して、被告人が官房長官在任中の昭和五九年八月から昭和六〇年一二月までの間、盆暮れに各五〇〇万円ずつの小切手が供与されていること、昭和五九年三月には江副が、昭和六〇年三月には田中、辰已が、それぞれ被告人を公邸に訪問して前記認定のとおりの陳情をしていること等の各事情からすると、本件起訴にかかる各小切手供与にわいろの趣旨が部分的にしろ含まれていると認める余地もある。

そこで、当裁判所としては、本件起訴にかかる各小切手供与のわいろ性の有無についての判断を留保した上、前述のわいろ性の有無に関する検討結果を前提として、被告人の本件各小切手供与のわいろ性に関する認識の有無について検討を進めることとする。

第三款 資金援助に関する被告人に対する報告状況

第一  徳田供述の検討

一 徳田の捜査段階における供述

徳田は、捜査段階において、献金をもらった場合の被告人への報告について、「機会をみて私が藤波に報告をしていた。全部もらさず報告するわけではなく、主なものや新しく献金をしてくれた会社などについて報告をした。わざわざ献金の報告のために藤波に会うのではなく、車の中で一緒になった時とか二人で階段や廊下を歩いている時などに報告をした。そのときは献金をくれた会社の名前を言うが、金額は言っていない。報告する時の言葉は、夏の献金であれば、『○○会社から御中元のごあいさつがありました。』であり、年末であれば、『○○会社から年末のごあいさつがありました。』であった。献金はどの会社も中元又は歳暮の時期にくれるのが普通であるので、このような言い方をするが、『あいさつがあった』というのは献金に来たという意味で、そのことは藤波も承知していた。こういう言い方なら他人が聞いても差し支えない。」旨供述し、報告をする理由について、「どの会社から献金があったかについて報告しておかないと、藤波がその会社の社長と会った場合に失礼があってはいけないので報告するが、金額までは報告していなかった。これは金額を他人に聞かれると困るということもあるが、基本的には献金をしていただくこと自体が有り難いことで、金額の多い少ないで対応を変えるべきではないという考えがあったからである。」旨供述し(甲書八七三)、リクルートからの献金については、「リクルートは藤波事務所に献金してくれる会社としては金額的にトップクラスであるので、献金があると、『リクルートからごあいさつがありました。』というような言い方で藤波に報告していたと思う。」と供述し(甲書八七五・五項)、さらに、被告人の自宅から押収されたメモ(甲物一一六)について、「これは私が書いたものである。同メモに『リクルート 間宮室長 100万×五枚 12/4』とあるのは、リクルートから一〇〇万円の小切手五枚、五〇〇万円の献金をいただいたという意味で書いた。日付は献金をもらった日か小切手の振出日のいずれかだと思う。内閣の便箋であるので、私が官房長官政務秘書をやっていた時か、やめて間もない時に書いたものと思う。リクルートからの毎年一二月の献金状況から判断すると、このメモは、昭和六〇年のリクルートからの献金のことを記載したものと思う。右メモが藤波の自宅から見つかったということだが、それは私がメモを書いて藤波に渡したからだと思う。メモに書いて渡した場合は会社名だけでなく金額も書いて報告していた。メモを書いて報告したことは何回かあったと思うが、私の記憶では口頭の場合がほとんどであり、口頭の場合は、会社名を報告するだけで金額を言わなかったと思う。メモを書いたのは、被告人が忙しくて献金について口頭で報告する機会がなかったのでメモに書いて渡していたものである。『間宮室長』の名前が書いてあるが、小切手は小野が持ってきており、間宮がリクルートの社長室長であるので、連絡先又は責任者という意味でその名前を書いたものと思う。」旨供述し(甲書八七六・三~六項)、政治献金に関する被告人の報告は、口頭による報告に加え、メモ等を作成して報告をしたこともあったことを供述している。

二 徳田の公判供述

徳田は、公判において、被告人に対する報告の有無、方法について、時々は口頭でお世話になりましたとか、あいさつに来られましたと報告していたが、金額までは報告していないし、その報告も半期にまとめて報告した旨供述し(九八回・徳田五七三~五七七項、一〇一回・徳田一二四、一二五、一三三~一三七、二五六~二五八項)、被告人に対して献金を報告していた事実については、概ね認めているものの、新しく献金してくれるようになった献金先については、いちいち被告人に報告した記憶はないと述べるなど(一〇一回・徳田一二七~一三〇項)、捜査段階の供述よりもあいまいな内容に供述を変更し、検察官調書の記載内容について、頭がこんがらがっている時にそのように言ったかもしれないが、事実ではないと供述している(一〇一回・徳田一三一、一三二項)。

また、内閣便箋のメモ(甲物一一六)について、捜査段階における供述を変更し、「被告人への報告のために書いたものではなく、献金についての事務的な処理を水谷にさせるために書いたものであり、一〇〇万円の小切手を五枚もらったので、領収書を五枚に分けて処理をするよう指示する意味で記載した。メモに基づいて被告人に報告をしたことはない。当該メモが被告人方から発見されたのは、被告人が官房長官をやめた時の引っ越しで自分の荷物が一部紛れ込んだためだと思う。」旨供述し(一〇一回・徳田二六九~二八八、二九九~三一二、五〇〇項)、捜査段階における供述について、「自分が判断能力がなくて、代議士も駄目だし、自分も駄目だと思っていた時に、検事からそうじゃないのかと言われたから、言われるままにそういう調書になった。」旨供述している(一〇一回・徳田三二一~三二四、四九三~四九五項)。

三 検討

徳田の捜査段階における供述は、被告人に対する報告をどのような機会にどのような方法で行うか、その際にはどのような点に気をつけて、どのような言葉を遣うのかなど経験した者でなければ語り得ない事柄を具体的、詳細に供述したものであり、被告人に報告すべき理由、その範囲についても合理的な説明をしており、高度の信用性が認められる。しかも、徳田は、検察官調書の作成に際して、その細部の表現に関して数点にわたって訂正を申し立てているのであるから(甲書八七三・六丁)、捜査当時は頭が混乱していたという右の公判供述は到底信用できない。

また、内閣便箋のメモ(甲物一一六)に関する捜査段階における供述は、被告人に対する報告の仕方について、いつもメモで報告していたのではないかと検察官から追及されながら、それを否定し、口頭の場合がほとんどであったと供述している中での供述であるから(甲書八七六・五、六丁)、検察官の言うままに供述をしたとする公判供述は、そのまま信用することはできないし、このメモは水谷に領収証の発行の仕方についての指示を与えるために作成したとの公判供述は、水谷が、それ以前から藤波事務所の資金管理に従事していて、領収証の作成などの事務については熟知していたはずであることからすれば、徳田からの個別の指示が必要であったとは考えられないこと、そのメモの記載からしても、徳田のいうように領収証の発行の仕方を指示したものであるとは到底見えないことなどからして信用できない。しかも、このメモが引っ越しの際に紛れたものであるとの公判供述は、このメモが被告人の純然たる私物と認められる書類等と共に発見されているところ、徳田のいうように水谷に対する指示の文書だとすると、なぜ被告人の荷物に紛れたのか判然としないなど、合理性があるとは認められず信用できない。

以上によれば、徳田の捜査段階における供述は十分信用でき、徳田の公判供述は信用できないというべきである。

第二  被告人に対して資金援助の状況が報告されていたことについて

右の徳田の捜査段階における供述に、〈1〉TBRビルの藤波事務所において、被告人の政治団体に対する資金援助の状況を記載したメモとこれに対応する各政治団体の銀行口座の預金通帳の写しなどが同封された封筒(甲書一〇一五)が発見されており、同封筒には「代議士へ 親展 水谷」と記載さされていることからすれば(九八回・徳田五八四、五八五項)、この封筒は、水谷が被告人に対して資金援助の詳細を報告するために使用したものと認められること、〈2〉徳田は、捜査段階において、リクルートからの献金について、金額も多額であり献金先のうちトップクラスであった旨供述しているほか、公判においても、「本当は、私どもは今後もお世話になりたいから、是非お礼を言ってもらいたいと思って、(被告人を)そこらに連れて行って、何とか江副さんにもお礼を言わそうと思って連れて行っても言わないんです。『どうも』くらいのことしか言いませんから。」と供述し(九八回・徳田五七九項)、この供述は、リクルートからの献金について、被告人に報告していたことを吐露していることをうかがわせることなどを併せ考えると、リクルートからの資金援助について、被告人に対し、徳田、水谷が口頭又はメモで報告していたことは明らかであり、本件各小切手についても同様の報告がされていたことが推認される。

第四款 本件各小切手供与のわいろ性に関する認識の有無

右に述べたように、本件各小切手のうち、昭和六〇年六月の小切手は、被告人が首相官邸で辰已、小野から直接受け取っており、その余の各小切手については、徳田が受け取り、そのことを被告人が報告を受けていたのであり、藤波事務所が、本件各小切手をリクルートから受け取っていた事実を被告人も認識していたことは、明らかである。

しかし、これまで検討してきたところによれば、

1 江副らからの被告人に対する陳情の内容、状況は、昭和五九年三月の公邸における江副の被告人に対する陳情が、民間の就職協定が遵守されない大きな原因の一つが官庁の青田買いにあることを説明し、公務員の青田買いについてなんとかなりませんかと言った上、公務員試験日程の繰下げをお願いするにはどこにどのようにお願いしたらよいのかを相談したというものであり、昭和六〇年三月上旬の公邸における田中、辰已の被告人に対する陳情が、企業が大学生を採用する際に、有名大学に在学しているというだけで採用する指定校制度を採ったり、大学での本人の学業成績を資料にしないで青田買いに出ることが、大学教育に影を落とし、国民の教育観を歪めているとして、このような観点から、臨教審で青田買いの問題を取り上げていただきたいというもので、青田買いの問題などを臨教審で取り上げてもらうことに主眼があったというものであり、いずれも主として陳情した内容は、官房長官の職務権限に含まれないか、関連性の薄いものであり、官庁の青田買い防止の善処方というのも、説明の前提としてか、あるいは付随的に陳情されたもので、しかも、その内容も「官庁の青田買い防止の善処方」をお願いしたという抽象的なもので、具体的に官房長官の職務権限を念頭において何かをして欲しいという内容を明示したものではない、

2 検察官が主張するように、昭和五九年八月上旬ころ、江副が被告人に対し、「半期五〇〇万円、年間一〇〇〇万円の献金を、当分の間させていただきたい。」と申し入れたという事実があったとしても、その文言自体でその献金がわいろであると認識できるようなものではない上、江副供述(乙書二三、二四)は、その場のやりとりについて、江副のそのような申し入れに対して、被告人が「どうも有り難うございます。」とお礼を言ったというだけで終わっており、それ以上に何か具体的なことをしてもらった謝礼であることを示すような言動については一切供述していない、

3 昭和五九年八月、一二月、昭和六〇年一二月の各小切手は、TBRビルの藤波事務所等において、徳田が小野から通常の政治献金と同様に受け取ったもので、江副の秘書的な立場にある小野から被告人の秘書である徳田に対して事務的に小切手が渡された域を出るものではなく、その各小切手供与時には、その各小切手がわいろであることを疑わせるような状況はなかった、

4 昭和六〇年六月の小切手は、首相官邸において、被告人が辰已、小野から直接受け取ったものであるが、その場のやりとりとしては、辰已が、「その節は有り難うございました。」と言った上、「臨教審ではご苦労様です。江副からですが、お納めください。」などと言って小切手を手渡したというもので、官庁の青田買い防止の善処方に対する謝礼といった趣旨を何ら明示しているものではなく、「その節は有り難うございました。」という文言中の「その節」が、仮に、検察官主張のように、昭和六〇年三月の陳情を示すものだとしても、その陳情内容自体が前述のとおり青田買いの問題を臨教審で取り上げてもらうことに主眼があった上、辰已、小野が首相官邸を訪問した時期が臨教審第一次答申が出された直後であったことをも考慮すると、その臨教審答申で青田買い問題が取り上げられたことについてお礼を言っているとも十分考えられる、

5 本件各小切手は、藤波事務所において、藤波事務所の資金管理口座である東京銀行日比谷支店の銀行口座に入金され、自治省に提出された報告書などで献金先が公にならないようにするため、一〇〇万円以下に分散して、被告人の複数の政治団体で受け入れ、その政治団体名義の領収証を発行するなど、通常の政治献金を受け入れる場合と同様の処理がされている、

6 リクルートと被告人とは、被告人が、労働大臣の職にあった昭和五五年当時から、リクルート主催の会合等に招かれるなどして接触があり、昭和五七年一一月の被告人の出版記念パーティーでは、リクルートが四〇〇万円相当のパーティー券を購入し、昭和五八年一月からは、リクルートが、被告人の秘書を従業員として扱い給与を支払うなどの関係にあった上、江副は、牛尾治朗から、昭和五七年ころ、被告人を応援して欲しい旨要請され、それ以降積極的に被告人を支援することにし、牛尾治朗を中心として日本青年会議所のOBである若手財界人によって被告人を支援するために結成された「さざ波会」に昭和五九年三月に入会するなどしていたのであり、それらの事情からすると、リクルートが被告人に対し、定期的に政治献金をしても不自然ではない関係にあったと考えられる、

7 リクルートから被告人に対しては、昭和五八年一一月から昭和六三年六月までの間、小切手が供与されているところ、これらの各小切手供与は、盆暮れの献金のいずれかに見合う時期に供与されており、全体を平均してみると年間一〇〇〇万円程度の金額の小切手が供与されていたと見ることができ、本件各小切手もそのような経過の中で供与されていたのであり、定期的にされていた政治献金の趣旨が含まれていた可能性を否定しきれない、

8 検察官の主張によると、被告人がしたと推認される具体的な官庁の青田買い防止の善処方というのは、被告人の働きかけにより人事課長会議の申合せがされたことにあるというのであるが、しかし、昭和五九年の人事課長会議の申合せは、被告人が働きかけるまでもなく、人事院と日経連等の経済団体との折衝により、公務員試験合格発表日を繰り上げる代わりに、公務員の採用において民間の就職協定を尊重し、協力するということで実現したのであり、昭和六〇年の同様の人事課長会議の申合せも、被告人が働きかけるまでもなく、前年の申合せを踏襲したものにすぎないのであって、昭和五九年の人事課長会議の申合せに関わる情報を収集していたリクルートが、被告人の尽力により、人事課長会議の申合せがされたと考えるような状況はなく、また、被告人が、リクルートから、人事課長会議の申合せがされたことについて感謝されていると考えるような状況もなかった、

9 検察官が主張するところによれば、江副が、昭和五九年三月一五日、被告人を公邸に訪問して陳情した後、約五か月近くも経って、昭和五九年八月上旬ころ、江副から被告人に対する献金の申し入れがされたということになるが、その間、被告人が、その陳情に対する対応を江副らに説明したことをうかがわせる証拠もなく(昭和五九年三月二四日のいわゆるフォローアップ訪問の事実は認められない。)、また、リクルート側からその陳情に対する被告人の対応についてお礼を述べた形跡もうかがえないことからすると、その陳情と献金の申し入れとの間に関連性があると被告人が認識するのはかなり困難であろうと思われる、

10 江副の本件各小切手供与についてわいろ性を認める捜査段階における供述は、「請託のお礼の要素がなかったのかと言われれば、これを否定することはできませんが、私の気持ちとしては、藤波先生は将来総理大臣までもなられる方と思っておりましたので、その政治的大成を願って、財政的なバックアップをしようという気持ちが強かったのです。」(乙書二四)、「私どもが藤波先生に対し、お願いごとをした謝礼の意味もこのお金に含まれていたことは間違いありません。しかしながら、私の気持ちとしましては、藤波先生は、将来総理大臣までもなられる立派な方と思っておりましたので、その政治的大成を願って財政的なバックアップをしようという気持ちが強かったのです。」(乙書二六)というもので、どちらかといえば、被告人に対する献金の趣旨で本件各小切手を供与したのであるが、請託のお礼の趣旨も一部含まれていたことは否定しきれないという内容であるところ、一般的にいって、贈賄側の気持ちがそのようなものである場合、受け取る側にとっては、受け取る物がわいろであることを認識させるような特別の事情などがなければ、受け取る物について一部わいろの趣旨が含まれていることを直ちに認識することは容易ではないと考えられ、このことは本件の場合も同様である、

以上の各事情が認められ、これらによれば、本件各小切手がわいろであると被告人が認識していたことについては、合理的な疑いが残るというべきである。

第三節  コスモス株譲渡のわいろ性に関する認識の有無

第一  コスモス株の譲渡及び被告人自宅の購入の各経過に関して証拠上明白な事実

以下の各事実は、当事者間にもほぼ争いがなく、また、証拠上(九八、一〇一回・徳田、一一九回・小野、甲書一七二、一七三、一七六・小野、甲書二一〇・白倉、甲書七三一・田島、甲書八一八~八二〇・徳田、甲書七一、七二、一九七、二〇三、二〇四、二〇六、二一四~二一六、五八五、八二八等)明白である。

一 昭和六一年九月ころ、江副から指示を受けた小野が、徳田と連絡をとってTBRビル六〇二号室の藤波事務所に行き、持参した株売買に関する書類等に徳田の署名、押印をもらい、合計一万二〇〇〇株のコスモス株を全て徳田名義で譲渡する手続を済ませたこと。株譲受代金については、一万株分は、藤波事務所の資金管理口座である徳田英治普通預金口座から、昭和六一年九月三〇日、三〇〇〇万円が支払われ、二〇〇〇株分は、徳田がリクルートの関連会社であるファーストファイナンスから同株を担保に借り受けた六〇〇万円で、同日、支払われていること。

二 コスモス株は、昭和六一年一〇月三〇日店頭登録され、五二七〇円の初値が付いたこと。小野は、そのころ徳田と連絡をとって株を売却するかどうかについて意向を聞き、売却するとの徳田の意向を受けて、翌三一日大和証券において一万二〇〇〇株全株を一株代金五二七〇円で売却したこと。右売却代金合計六二四四万四三六〇円(委託手数料等を差し引いた額)が徳田の指定した徳田の個人口座である第一勧業銀行伊勢支店の徳田英治名義の普通預金口座に入金されたこと。

三 徳田は、昭和六一年一一月一〇日、右口座に入金された金のうちからファーストファイナンスの口座に自己の借入金の元利返済金として六〇四万七一七八円を振込送金して完済するとともに、同日、被告人の義弟である第一勧業銀行伊勢支店次長東海正明の依頼で、残金のうちから五五〇〇万円を徳田名義で一月満期のMMCにしたこと。同MMCは、同年一二月一〇日に満期となり、その元利合計五五一一万九八八五円が同銀行伊勢支店の右徳田英治名義普通預金口座に入金されたこと。

四 被告人は、昭和六〇年二月ころから、東京都杉並区和泉三丁目所在の居宅を駿台会館から賃借し自宅として使用していたが、その土地建物を代金一億三二三一万九七七四円で買い取ることにし、昭和六一年一二月二〇日売買契約を締結したが、その手付金及び内金の合計五二〇〇万円の支払いには、同月一九日前記第一勧業銀行伊勢支店の徳田英治名義の普通預金口座の資金を原資として振り出された同銀行亀戸支店大島出張所長振出しの金額五二〇〇万円の徳田英治宛小切手が使用されていること。

五 右自宅購入代金の残金八〇三一万九七七四円については、その後、大和証券本店営業部の徳田英治名義口座から五〇〇〇万円、徳田英治普通預金口座から三〇三一万九七七四円が支払われていること。

第二  コスモス株の譲渡及び被告人自宅の購入の各経過に関して、当事者間に争いのある事項及びそれに対する当裁判所の判断

一 コスモス株譲受けをめぐって当事者間で争いの対象になっている主な事項は、次のとおりである。

1 コスモス株譲渡に当たって、江副が直接被告人に電話連絡をしたか否か

2 コスモス株一万二〇〇〇株のうち、一万株を譲り受けたのは被告人か、それとも全株徳田が譲り受けたのか

3 被告人の自宅購入資金の一部にコスモス株売却代金が充てられたのか否か

二 右各争点に対する当裁判所の判断

1 被告人に江副から直接電話連絡があったことについて

江副は、捜査段階において、当初徳田に電話をしたと供述し(一一六回・江副三九二、四二四項)、その後、平成元年四月一五日付け検察官調書(乙書七)において、徳田かあるいは被告人本人に電話をしたと供述を変更したが、最終的には、平成元年五月七日付け検察官調書(乙書一八)において、「私から直接藤波先生に藤波事務所か議員会館かに電話をして、『近々リクルートコスモス株が店頭公開されますので、先生に一万株お持ちいただきたい。詳しくは小野を先生の秘書のところへ行かせますのでよろしくお願いします。』と話をいたしました。先生は了解してくれました。私は、前回徳田英治秘書に私から電話をしたように申しあげましたが、よく考えてみると、藤波先生本人であったという気がいたします。」と述べ、自分が直接被告人に電話連絡をとった事を認めている。ところが、公判では、「私の記憶では、私が小野に徳田さんに電話をつながせて、コスモス株の件で小野に行かせますので、よろしくお願いしますというごあいさつをさせていただいて、小野がアポイントを取って、小野がお邪魔していろいろお話をさせていただいたというふうに私は思っております。」と述べ(一〇五回・江副六三二項等)、江副が直接電話連絡したのは、被告人ではなく徳田であると供述し、捜査段階では元総理大臣を不問にするから、被告人に電話したことを認める調書に署名しろと迫られ、やむをえず署名した旨述べている。

江副が被告人に直接コスモス株の件で電話連絡したか否かについては、結局のところ、江副の右供述のどちらを信用するかにかかっている。そこで、以下においてどちらの供述が信用できるかにつき検討する。

(一) 江副は、その相手はともかくとして、コスモス株を譲渡するに当たって、直接自分が藤波側に電話連絡をしたこと自体は捜査段階、公判を通じ一貫して認めている。そして、その相手として挙げているのは、被告人と徳田だけであり、それ以外の者は挙げていない。

ところが、徳田は、捜査段階、公判を通じ一貫して、小野から電話連絡があったのであって、江副からは直接電話連絡を受けていないと供述している。

もし江副から徳田に真実電話連絡があったのであれば、コスモス株の取引は自分がやったことで、被告人は一切関与していないとして、コスモス株の取引に関し、被告人をかばう供述態度に終始している徳田が、江副から電話連絡があったことをむしろ進んで供述してもよさそうなのに、そのように供述していないのは、やはり江副から徳田に電話連絡はなかったのではないかと推測される。

(二) 徳田は、「私が、新株や転換社債の取引について交渉したのは、いつも相手会社の秘書でした。会社によって秘書室長、秘書課長などと役職が異なることがありますが、いずれにしても秘書が相手でした。例えばリクルートでは小野秘書室長であり、大和工商リースの親会社の大和ハウスは河合秘書室長でした。これは、どのような会社であってもその地位による対応関係というものを重視しなければなりませんので、そのようになるのです。私は、藤波の秘書ですから、会社との対応では、通常の場合、そこの秘書と話をすべきであり、私が社長と交渉するということは、礼を失することになるのです。」「だから社長が何かを依頼したり、交渉したりする場合は、藤波本人に対して行っているはずで、例えば、リクルートの江副さんから話があったとすれば、藤波本人にあったはずであり、私あてにあるということは普通の場合は考えられないことです。」(甲書一〇三六)と、自分が江副と直接交渉をしない理由について合理的な説明をした上、捜査段階、公判を通じて一貫して、コスモス株の譲受けについて、自分が直接やりとりしたのは小野であったと供述しているのであって、この点に関する徳田供述は十分信用できると考えられる。また、江副自身、コスモス株の譲渡に関して、数人の政治家には自ら直接電話連絡した旨供述している上(一〇五回・江副六一六項、一一六回・江副四二七~四三一項)、被告人とは、徳田よりもより親しい関係にあり、被告人に電話をかけようと思えばいつでもかけられる状態であった旨供述している(一〇五回・江副六二〇、六三四項)。これらの事情に、江副の地位、被告人と江副との関係、徳田と江副との関係等を併せ考慮すると、江副がコスモス株譲渡の件で電話連絡をとる相手としては、徳田よりも被告人である可能性が格段に高いと考えられる。

(三) 小野は、捜査段階において、「江副さんから、『藤波事務所へ行って手続をしてほしい。先方に一万二〇〇〇株お譲りする話ができている。このうち一万株分は藤波先生側にお譲りすることになったが、譲受名義については秘書の徳田さんにお任せしているので、徳田さんに聞いて手続をとってほしい。あとの二〇〇〇株の分は徳田秘書個人にお渡しする分なので、一万株分と二〇〇〇株分は書類を分けて持っていくようにしてもらいたい。また、ファイナンスを付けるかどうかについても、徳田さんにお任せしているから、徳田さんに聞いてやってほしい。』旨言われ、藤波先生の秘書の徳田さんと事務手続をとるように指示されました。それで、私は、その直後、さっそくTBRビルの藤波事務所に電話をし、徳田さんと連絡をとりあったのです。私が電話をしたところ、すでに江副さんの方から先方に話がいっていて、江副さんが話してきた内容で全て了解が得られているようでありました。私が徳田さんに『リクルートの小野ですが、すでに江副から連絡がいっていると思いますが、コスモス株の譲渡手続におうかがいしたいので、お時間をいただけますか。』と言ったところ、徳田さんはわかっていますなどと言って、アポの日時をすぐに指定してくれました。」(甲書一七二)と具体的かつ詳細に述べているほか、「このリクルートコスモス株をこういった内容で譲渡することについては、すでに江副さんの方から直接藤波先生側に話の持ち込みがなされ、先生側もその内容で全て了承済みであり、あとは手続をするばかりであるという前提で私が先方にうかがったのであり、私がそもそもの話を先方に持ち込んだということは決してありません。江副さんの方も、私に手続に行くように指示する際、すでに江副さんが先方の藤波先生側に連絡して話をつけている旨言っており、それで私が手続にうかがったのであって、このことは絶対に間違いないのです。」(甲書一七三)と供述している。これらの供述は、江副の捜査段階における供述とよく符合している上、小野の取調べに当たった山本検事の公判供述等に照らし十分信用できる。

もっとも、小野は、公判において、「藤波先生をリストアップした後に、江副から君が徳田に話してくれという指示があったので、自席に戻って徳田に電話してアポイントを取り、藤波事務所を訪問した。一万株を藤波先生にお持ちいただきたい旨の話をすると、徳田は自分の名義でいいかと聞くので、名義のことをペンディングにして、一旦会社に帰り江副に相談した。その時、徳田にも藤波先生の分と別に二〇〇〇株を譲ることを江副に相談し、これも了解を得たので、そこから徳田に電話した。徳田が電話口に出たところで江副に替わると、江副が徳田に、一万株の名義は徳田で構わないということと徳田に二〇〇〇株を渡すということを話した。江副が電話に出た後、自分がその電話に出たということはない。徳田には改めて自分が電話をしてアポイントを取り、再度手続のために藤波事務所を訪ねた。」旨供述している(一一九回・小野七二一~七七三項)。しかし、この公判供述は、江副の「小野に徳田との電話をつながせ、ごあいさつを申し上げ、『コスモス株の件で小野を行かせますので、よろしくお願いします。小野がお邪魔して詳しい話をさせていただきます。』と言った。」という公判供述(一〇五回・江副六三二、六三三項)と明らかに矛盾する上、江副が、間宮、小野を立ち会わせてコスモス株譲渡先をリストアップした後、その譲渡先を追加したのは、諸井虔と徳間康快である旨の江副の公判供述(一一二回・江副一八一~一九二項)にも反し、また、政治家の秘書をリストアップする場合、政治家とワンセットにしてリストアップしているとうかがえること(一一二回・江副二二〇~二二五、二四五~二四九項)などに照らし、到底信用できない。

以上の各事情からすると、コスモス株譲渡に当たって、被告人に直接電話連絡をしたという江副の捜査段階の供述は十分信用できるというべきである。

これに対し、これに反する江副の公判供述は、右の各事情や江副の取調べに当たった宗像検事の公判供述等に照らし到底信用できない。

2 コスモス株一万株を譲り受けたのは被告人であることについて

被告人は、「自分がコスモス株を譲り受けたことはない。」旨主張し、徳田も、捜査段階、公判を通じ一貫して、「コスモス株一万二〇〇〇株全株を自分が譲り受けたのであって、被告人が一万株を譲り受けた事実はない。」旨供述している。

しかし、次に述べる理由により、コスモス株一万株を譲り受けたのは被告人であったと認められる。

(一) 前記認定のとおり、江副は、被告人に対し直接電話をかけてコスモス株譲渡の話を持ちかけている。

(二) コスモス株譲渡代金の出所は、前に認定したように、一万株分については、藤波事務所の資金管理口座である徳田英治普通預金口座から三〇〇〇万円が支出され、二〇〇〇株分については、ファーストファイナンスから徳田が融資を受けた六〇〇万円が充てられていて、明らかに区別した扱いがされている。

この点について、徳田は、「最初小野から一万株についての申出があり、その代金三〇〇〇万円を事務所資金から借りることを水谷に頼み、翌日ころ、再度小野が来て、二〇〇〇株を徳田個人の分として用意していると言ったので、更にその代金六〇〇万円を借りるのは気がひけたので、ファーストファイナンスから融資を受けた。三〇〇〇万円の借金については、コスモス株を売却した代金のうちから三〇〇〇万円を水谷に返済した。」旨供述している(九八回・徳田六七八、六七九項、一〇一回・徳田六〇九~六一五項、甲書八一八、八二〇・徳田)。しかし、この徳田供述は、一万株についても被告人ではなく徳田個人が引き受けることになったのに、なぜその上に二〇〇〇株が徳田個人に対し上乗せされることになったのか合理的な説明がされていないこと、三〇〇〇万円を事務所資金から借りられたのに、六〇〇万円を借りなかった理由について合理的な説明ができていないこと、水谷に返済したという三〇〇〇万円について、その後どうなったのか明らかになっていないこと、徳田は、コスモス株譲受けに関し、捜査段階及び公判を通じ終始被告人をかばう供述態度であったこと等の事情に照らし、到底信用できない。

(三) コスモス株売却代金六二四四万四三六〇円(委託手数料を差し引いた額)のうち、一万株の売却代金にほぼ相当する五二〇〇万円については、後で認定するとおり被告人の自宅購入代金に充てられているのに対し、二〇〇〇株の売却代金にほぼ相当する約一〇四〇万円については、ファーストファイナンスに返済した残額を徳田において費消している(甲書二一五)。

(四) 江副、小野は、捜査段階、公判を通じ一貫して、譲受人の名義はともかくとして、一万株は被告人分として割り当て、二〇〇〇株は徳田分として割り当てた旨供述している。

(五) 被告人は、公判において、「私は、父親の遺言もあり、株等には一切手を出さないようにしてきたし、徳田らの秘書にも株等には手をださないよう注意をしてきたのであるから、本件コスモス株についても、自分がまったく知らない間に、徳田が勝手に個人として譲り受けたものである。」旨供述している(一四六回・藤波)。しかし、後で認定するように、藤波事務所では、大和工商リースの転換社債等の取引を多数回にわたって行い、利益を上げているのであり、しかも、その利益の一部は、被告人の自宅購入代金の一部に充てられているのであるから、たとえ、事務所資金の管理を全て徳田らの秘書に任せていたとしても、少なくとも、徳田らが事務所資金で転換社債等の取引をしていることくらいは、被告人において、知っていたと認められ、そうだとすると、被告人の右供述は信用できないというべきである。

3 コスモス株売却代金のうち五二〇〇万円が被告人の自宅購入代金の一部に充てられていることについて

コスモス株売却代金のうち五二〇〇万円が被告人の自宅購入代金の一部に充てられていることは、以下に述べる理由により明らかである。

(一) 徳田は、手付金及び内金として金額が五二〇〇万円になった理由につき、「購入代金一億三〇〇〇万円の二割の二六〇〇万円を手付金、更に二割の二六〇〇万円を内金としたもので、コスモス株売却代金五二〇〇万円と一致したのは偶然の一致である。」旨供述している(甲書八二〇・徳田、九八、一〇一回・徳田)。しかし、このように金額が一致するのが偶然の一致というのではあまりにもできすぎた話であること、駿台会館の専務取締役田島は、「五二〇〇万円と決まったのは、徳田さんの方の意向で決まったことです。通常一億三〇〇〇万円前後の取引であれば手付金として二〇〇〇~三〇〇〇万円をいただくというのが普通であり、契約締結時に売却代金の四割に当たる五二〇〇万円をいただくのは異例のことだと思う。」旨供述し(甲書七三一)、現に、駿台会館が前所有者の伊藤啓治から同じ物件を代金一億三〇〇〇万円で購入したときには、二〇〇〇万円の手付金しか支払われていなかったこと(甲書七三一・田島)、また、このように高額の手付金、内金となった理由について、徳田は、なんら合理的理由を述べていないこと等の事情に照らすと、徳田の右供述は、到底信用できず、むしろ、五二〇〇万円という金額は、コスモス株売却代金五二〇〇万円という金額を念頭において、徳田が決めたと考えるのが自然である。

(二) 駿台会館の親法人である駿河台学園の秘書室長白倉は、「昭和六一年秋ころ、何かのパーティーの席で、突然徳田さんから『藤波があの家を気にいったと言っているので、買い取りたい。』と言われた。」旨供述し(甲書二一〇・白倉)、また、前記田島は、「昭和六一年一一月ころ、徳田さんから私あてに電話が入り、『杉並の家を藤波の方で買うから。』と言ってきたのです。徳田さんから最初にこの物件に関する話が持ち込まれたときに、いずれ買い戻すと言われてはいましたが、この時期に買い戻すような約束はなかったので、まさに突然のできごとでした。この時期になぜ藤波先生が買い戻すと言ってきたのかは、向こうの事情なので正確には分かりません。」と供述し(甲書七三一・田島)、昭和六一年秋、コスモス株取引の話が持ち込まれた時期と一致する時期に、突然徳田から被告人が自宅を買いたいと言ってきたことを供述している。このように自宅購入を決めた時期とコスモス株取引が持ち込まれた時期が一致するということは、偶然であるとは考えにくく、徳田の方で、コスモス株売却益を念頭において、被告人の自宅購入時期を決めたのではないかと推測される上、しかも、この時期に自宅購入を決めたことについて、被告人及び徳田において、合理的な説明をしていない。

(三) 第一勧業銀行伊勢支店の徳田英治名義の普通預金口座に入金されたコスモス株売却代金六二四四万四三六〇円のうち五五〇〇万円が一月満期のMMCで運用されているが、このように短期の運用がされたのは、満期後直ちにそれを使う予定があったからではないかと推測される。

(四) 被告人は、公判において、「昭和六〇年秋に長女を嫁がせたときに、一億を超える祝い金が集まり、その中から、昭和六一年一二月三日に、自宅購入代金の一部として五二〇〇万円を徳田に渡した。」旨供述し(一四九回・藤波)、徳田も、それに沿う供述をしている(一〇一回・徳田、甲書八二〇・徳田)。しかし、被告人が述べるように五二〇〇万円を用意したというのであれば、それで自宅購入代金の手付金等を支払えばよいのに、そうはしないでわざわざコスモス株売却代金五二〇〇万円を原資とする自己宛小切手を使用していることについて、徳田は、「現金を持って行くより、小切手を持って行った方が安全だと考え、第一勧業銀行から小切手を振り出してもらった。」旨弁解するが(九八回・徳田七二七項、一〇一回・徳田三九、四〇項、甲書八二〇・徳田)、そうであれば被告人が持参した現金を自己宛小切手にしてもらえばそれですむものを、なぜそうしなかったのか、徳田は、合理的説明をできないでいること、被告人から徳田が預ってきたという現金五二〇〇万円について、その後どうなったのかについて明らかにするものは何も残っていない上、その点に関する徳田の供述は、あいまいでとても信用できるものでないこと等の事情に照らすと、被告人及び徳田の右各供述は、信用できない。

(五) 被告人の自宅購入代金の残額八〇三一万九七七四円は、昭和六二年一月二〇日完済されているが、その出所は、五〇〇〇万円が大和証券本店営業部の徳田英治名義の口座であり、三〇三一万九七七四円が徳田英治名義普通預金口座であることは前述したとおりであるが、これらについて、徳田は、「いずれも藤波事務所で立替え払いしたもので、五〇〇〇万円については、昭和六二年二月初めに、三〇〇〇万円については、同年六月ころに、それぞれ藤波が事務所に現金で持参したと聞いている。」と供述し(一〇一回・徳田七九~九八項、甲書八二〇・徳田)、被告人も、公判において、「昭和六〇年秋、長女を嫁がせたとき集まった祝い金のうちから、昭和六二年一月現金五〇〇〇万円を、同年六月ころ、長男の結婚式の祝い金から、現金三〇〇〇万円をいずれも秘書に渡した。」旨供述している(一四九回・藤波)。しかし、昭和六一年一二月二〇日契約を締結した時点で、残金八〇三一万九七七四円の支払日が昭和六二年一月二〇日であることは、当然被告人も知っていたはずであるのに、被告人がその支払日に手持ち資金で支払わず、事務所に立替えさせているのは、当初から事務所資金を当てにしていたのではないかと思われること、仮に、被告人の供述するように、残金三〇〇〇万円については、長男の結婚祝いを当てにしていたというのであれば、その三〇〇〇万円の支払期日を結婚式が予定されていた日の後にしてもらうのは、被告人と駿台会館役員との関係からすれば容易であったと思われるのに、そのようにしていないのは不自然であること、被告人が現金で持参したという合計八〇〇〇万円について、その後事務所の方でどのように入金処理されたのか明らかにするものは何もない上、この点に関する徳田の供述は、あいまいで信用できないこと等の事情に照らすと、徳田及び被告人の右供述は信用できず、むしろ、残金八〇三一万九七七四円については、藤波事務所の資金から支出されたものと考えるのが自然である。

なお、自宅購入代金の残額のうち五〇〇〇万円の出所である大和証券本店営業部の徳田英治名義口座について、徳田は、公判において、その口座で、藤波事務所の金と自分の金とを合わせて資金を運用していたもので、藤波事務所の資金運用口座であると検察官に供述したのは間違いであると供述している(九八回・徳田二五一~二六九項等)。しかし、この徳田の公判供述は、当該口座開設時に入金した五〇〇〇万円について、徳田は、捜査段階において、全額藤波事務所の資金であると明確に供述していること(甲書八一五・徳田)、水谷も、捜査段階において、この口座は、徳田が独自の考えで事務所の資金を運用していたものであると供述していること(甲書一〇一一・水谷)、被告人も、捜査段階において、藤波事務所の資金を運用していた口座に間違いない旨供述していること(乙書六七・藤波)、五〇〇〇万円のうち、三〇〇〇万円は自分の金であるとする徳田の公判供述は、その三〇〇〇万円の出所について、被告人が官房長官になった時に、後援者の方々からいただいたお祝い金であるとか、また、その時に君にもと言っていただいた金であると述べるなど、まことにあいまいで不自然な供述をしていること(九八回・徳田二五六~二六九項)、昭和六二年六月二九日当該口座に入金されている一〇〇〇万円と二二九万五五一九円は、藤波事務所の資金を運用して取引をした大和工商リース及びセコムの各転換社債の売却益であること(甲書二〇四、五八五、八二三~八二五)、当該口座から昭和六三年七月一五日出金された三〇〇〇万円(現金)及び当該口座が解約された際の残金四〇七〇万五八三七円(小切手)がいずれも藤波事務所の資金管理口座である徳田太普通預金口座に入金されていること(甲書二〇四、五八六)等の各事情に照らし、到底信用できない。かえって、右の各事情に、徳田の捜査段階における供述(甲書八一五、八一六)、水谷(甲書一〇一一)、西沢益男(甲書一九九)、名取睦朗(甲書二〇〇)及び清水頼秀(甲書二〇一、二〇二)の各供述を総合すれば、当該口座が、徳田において、藤波事務所の資金を運用して転換社債や株の取引をしていたもので、藤波事務所の資金運用口座であることが明らかであるというべきである。

第三  コスモス株譲渡の趣旨とそれに関する被告人の認識

検察官は、コスモス株は、検察官主張の各請託に対するお礼の趣旨で、江副から被告人に譲渡されたものであり、被告人もそのことは認識していた旨主張し、江副も捜査段階で、平成元年四月二七日付け検察官調書(乙書一二)において、「以上申し上げたように、藤波官房長官に対しては、リクルートが就職協定の問題についていろいろお願いしたことや、私の政府税調特別委員への選任等につき官房長官として関与されたことなど、そういう関係もあって、コスモス株の譲渡を行ったものであります。」と供述した後、さらに、平成元年四月三〇日付け検察官調書(乙書一四)において、「本日申し上げたような、藤波先生に対して就職協定等のお願いをしたような関係もあって、先生に対し、前回申し上げたように、リクルートコスモス株一万株を譲渡したのです。」と供述している。

しかし、コスモス株譲渡の趣旨に前記各請託に対するお礼といった趣旨が含まれていたか否かはさておき、被告人がその趣旨を認識していたことについては、次に述べることからして、合理的な疑いが残る。

1 前記認定のとおり、江副らからの被告人に対する陳情の内容、状況は、官庁による青田買い防止の善処方の話が出たとしても、付随的なものであったのであり、主として陳情した内容はいずれも、官房長官の職務権限に含まれないか、関連性の薄いものであり、官庁の青田買い防止の善処方というのも、説明の前提としてか、あるいは付随的に陳情されたもので、しかも、その内容も「官庁の青田買い防止の善処方」をお願いしたという抽象的なもので、具体的に官房長官の職務権限を念頭において何かをして欲しいという内容を明示したものではない。

2 前記認定のとおり、コスモス株譲渡に関し、江副から被告人に直接電話連絡があったと認められるが、江副の供述からは、その際の江副の説明の中に、明示的にしろ、黙示的にしろ、コスモス株の譲渡が前記各請託に対するお礼であることを示す言動があったことは、一切うかがえない。

3 小野と徳田のコスモス株譲渡に関するやりとりの中でも、小野は、前記各請託に対するお礼といった趣旨で被告人に譲渡されるものであることを示す言動は一切していない。

4 本件でわいろだと主張されている小切手授受の最後のものは、昭和六〇年一二月の五〇〇万円の小切手授受であるが、それからコスモス株を譲渡するまでの間、昭和六一年六月にも一〇〇〇万円の小切手授受があり、また、コスモス株譲渡があった後も、昭和六二年七月三〇〇万円、昭和六二年一二月一〇〇〇万円、昭和六三年六月一八〇〇万円とそれぞれ小切手授受がされているところ、これらの各小切手授受については、前に認定したとおり、定期的な政治献金の趣旨が含まれていた可能性も否定しきれないのであるから、そういう流れの中でコスモス株が譲渡されたとしても、このコスモス株譲渡にそのような資金援助の趣旨以上に特別な趣旨が含まれていたと認識することは困難であると思われる。

5 被告人と江副あるいはリクルートとの関係は、前記認定のとおりであって、前記各請託に対するお礼といったことがなくとも、コスモス株が譲渡されても何ら不思議はないような関係であり、被告人が、江副からコスモス株譲渡の連絡を受けたときも、これが前記各請託に対するわいろではないかとの疑問を持たなくとも不自然ではない。

6 前記認定のとおり、昭和五九年、昭和六〇年の各人事課長会議の申合せは、被告人が働きかけるまでもなく、実現したのであるから、リクルートが、被告人の尽力により、人事課長会議の申合せがされたと考えるような状況はなく、また、被告人が、リクルートから、人事課長会議の申合せがされたことについて感謝されていると考えるような状況もなかった。

7 江副によりコスモス株譲渡の相手方として選定された政治家は、その最終的な譲受人が政治家本人であるか、その秘書や家族であるかはともかくとして、被告人のほかに、中曽根康弘(二万九〇〇〇株)、安部晋太郎(一万七〇〇〇株)、竹下登(一万二〇〇〇株)、加藤六月(一万二〇〇〇株)、宮沢喜一(一万株)、渡辺秀央(一万株)、渡辺美智雄(五〇〇〇株)、加藤紘一(五〇〇〇株)などがいるが(名義は、本人、秘書及び親戚等いろいろである。)、コスモス株譲渡の相手方選定の基準として、これら政治家について、リクルートの営業上の利益だけを考慮してこれら政治家を選定したとは考えられない上、前記認定の政府及び自民党における被告人の地位や立場及び被告人と江副あるいはリクルートとの関係からして、被告人がそれら政治家と比較して、これだけの数の株を譲り受けることにつき、何か特別のことがあったからであると疑問を生じさせるようなことはない。

8 一万二〇〇〇株全株につき徳田名義で譲り受けたことについても、藤波事務所では、前記認定のとおり、資金の運用は全て秘書名義でやっており、特に、株や転換社債等の取引については、全て徳田名義でやっているのであるから、コスモス株一万株を譲り受けたのが前記認定のとおり被告人であるにもかかわらず、譲受名義を徳田にしていることをもって、被告人にわいろ性の認識があったことを推測させるとはいえない。

9 コスモス株売却代金合計六二四四万四三六〇円がわざわざ徳田個人の口座である第一勧業銀行伊勢支店の徳田英治名義の普通預金口座に入金されていることについては、確かに疑問が残る。しかし、これも、前記認定のとおり、コスモス株売却代金については、徳田において、当初から被告人の自宅購入資金に充てることを予定していたため、藤波事務所の資金とは区別する趣旨でその口座を利用したものと考えればとくに不思議とはいえない。もっとも、自宅購入代金について、被告人が、その後の支払いを含めて、かなりの額の金を藤波事務所の資金から支出させているのは、公私混同だと非難されても仕方がないが、それと本件わいろ性の認識とは別問題である。

10 そして、何よりも、本件コスモス株譲渡話が出た時期は昭和六一年九月であって、最初の請託があったとされる昭和五九年三月から実に二年半、二度目の請託があったとされる昭和六〇年三月からでも一年半も経過しているのであって、被告人において、本件コスモス株譲渡がそれらの請託に対するお礼の趣旨であると認識するのは困難と思われる。

第五章  結語

以上検討してきたように、昭和五九年三月一五日の請託及び昭和六〇年三月上旬の請託のいずれについても、それらの事実があったことにつき合理的な疑いが残り、仮に、各請託の事実が認められるとしても、供与された小切手、譲渡されたコスモス株がわいろであると被告人が認識していたことにつき合理的な疑いが残り、結局、本件各公訴事実については、いずれも犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡しをする。

(裁判長裁判官 三上英昭 裁判官 山口雅高 裁判官 佐々木一夫)

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